ノアの方舟が、この山の頂上に行きついたというアララト山(5,165m)。手前はホルヴィラップ修道院 |
旅の初めに・・・ アルメニアと聞くと予備知識に自信がなかった。日本と同様の「鎖国」と国民参加の「ネズミ講」で破綻したアルバニアとよく勘違いするであろう。 事前に調べると、アララト山がトルコ領となる前は自国領であることを知る。 アララト山はノアの方舟であまりにも有名である。アルメニアの面積は九州より小さい、ソ連邦の中でも一番小さな小国であった。 ポーランドで起きたユダヤ人「ヒトラーの大虐殺、その犠牲者500万人」に匹敵する「アルメニア人大量虐殺」は150万人とも300万人とも言われているようだ。 旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」のより多い伝説を期待しながら旅立つことにする。 |
アルメニアとトルコの間にアララト山がある | アルメニアは隣国アゼルバイジャン、トルコとも関係が悪い |
ワンポイント情報 ・国名 アルメニア共和国 ・民族 アルメニア系(97.9%)、ロシア系(0.5%) |
アルメニアは、旧ソビエト連邦内で最小の共和国である。起伏に富んだ山岳地帯の多い内陸国で、地震が多発する。紀元301年に、世界初のキリスト教国となったが、現在では周辺国のほとんどがイスラム教国である。第1次世界大戦中、オスマン帝国の容赦ない弾圧により、アルメニア人は「ディアスポラ」(民族の離散)を余儀なくされた。1918年に独立を果たすものの、1920年にはソ連軍の侵略に敗れた。1988年には壊滅的な地震で2万5000人が死亡した。また同年、14万人のアルメニア人が居住するアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州の帰属をめぐる紛争が発生した。アルメニアは1991年にソ連から独立を勝ち取り、1994年までにアルメニア軍がアゼルバイジャン軍に勝利してナゴルノ・カラバフ自治州を制圧したが、紛争はまだ解決されていない。 画像:ホルヴィラップ修道院は、雪を頂くアララト山を背に立つ。アララト山には、旧約聖書に語られたノアの箱舟が埋まっていると信じる者も多い。 |
アルメニア人は、アルメニアの主要民族。インドヨーロッパ語族に属するアルメニア語を使用している。アルメニア人の7割はアルメニア共和国外在住である。 12世紀にアルメニア王国や東ローマ帝国が衰退・崩壊した後は世界中に拡散し、商工業の担い手として各地にネットワークを広げて活躍した。 古代のアルメニア人の最初の職業は軍人であり、それがキャラバンと結びついた。古代のキャラバンは商人と武力は密接な関係があると指摘し、それがアルメニア人が兵士と商人で名をはせた要因になったといわれている。 一説には、ユダヤ人よりも商売上手で、世界にネットワークを貼りめぐされていると言う。ユダヤ人同様にその才能がアダとなり大虐殺に繋がったと歴史的に見られているようである。 |
☆国境
グルジアから国境を越えてアルメニアの北に入国 | 山岳地帯の多い内陸国 | 農業(ブドウ、野菜)国である |
ハフパット修道院とは、アルメニアハフパットにある修道院である。1996年に、ユネスコの世界遺産に登録された。 アルメニアは、世界最古のキリスト教を国教とした国家として知られる。5世紀から7世紀にかけて、アルメニア使徒教会は教義の解釈や建築面において独自の発展を遂げたが、アラブ人による征服により、その発展は中断を余儀なくされた。 アルメニアの再独立は、9世紀を待たねばならない。ハフパット修道院が建設されたのは、再独立が達成された以降である970年代である。991年には完成したが、度重なる地震が修道院を破壊したのも事実であり、1105年には、セルジューク朝(イラン、イラクを中心としたイスラム国家)の攻撃を受けた。 |
970年代の建築 | 1,000年以上の歴史 | イスラム国家から攻撃の際、経典をこの穴に入れ塞ぎ守ったと言う。 |
床には多くの墓が | 静寂! | 天井には宗教画 |
☆モロカン人(キリスト教徒)
アルメニアのセヴァン湖に近いディリジャンと云う町がある。そこから少し離れた所に集落がある。山に囲まれた峡谷で川に沿って、灰色の屋根と壁で統一された山間の小さな集落である。農業を生活の糧としている。 ここはロシアのエカテリーナ女帝時代に、異端派としてロシアから移住してきたモロカンというキリスト教徒の一派が住んでいる集落である。彼らの作る漬物(酢漬けのようなもの)は美味しいと大変評判で、道端でも買うことができる。 モロカン人は平和主義を主張して兵役を拒否し、武器を取ることを拒んだため、1660年代からロシア社会から追放された。モロカンはロシア語でミルクを意味する語である。肉食禁止期間でもミルクや乳製品を自由に食べていたことが名称の由来とも言われる。 彼らは純潔を守り、他の民族の血を入れない事が決まりの様である。だから殆どの村人は白い顔、白い頭が特色である。 |
標高1700mの高地 | 峡谷に集落があり農業で自活 |
峡谷を走る川を挟み集落がある | 白い屋根、白い壁、人の顔も白く頭も白毛。モロカン派の宗教 |
☆ランチタイム
野菜・チーズは定番 | スープ |
メインはアルメニア式バーベキュー | デザート、ヨーグルト付き |
アルメニア最大の湖で、大規模な湖としては世界で最も高地にあるものの一つ(海抜約1900m)。 カスピ海へ注ぐが、乾燥地帯にあるため90%の水は直接蒸発している。 |
琵琶湖の2倍の広さ、アルメニア で最初の水力発電所が建設 | 140段石段を登った山頂にセヴァン修道院がある |
9世紀創建のセヴァン修道院 | 聖母教会 | 聖母犬? |
人口約106万人。機械製造や金属業、ワイン、ブランデー製造、たばこ製造業が盛ん。フラズダン川が市内を流れる。南にアララト山を臨む。現存する世界最古の都市の一つとされる。 エレバンは古代トルコ、古代イラン、アラビア半島のアラブ人、中央アジアのモンゴル系ティムール、オスマン帝国(トルコ)、サファヴィー朝(イランのイスラム系)、ロシア帝国に征服され、独立前にはソビエト社会主義共和国連邦の1国となり、小国ゆえの変遷を経験した。 (画像はアララト山) |
動画・・・アルメニアの首都エレバン |
エレバン(首都)の街並 標高950m | この国は自転車やバイクが皆無。それは恥ずかしい、プライドがあるらしい。客が来た時パスタ料理は簡単でこれも恥ずかしいと言う。不思議の国! |
このホテル「メトロホーム」に泊まる | ホテルの窓から見える「エレヴァン・コニャック工場」↓参照 | ディナーはビーフ、当然コニャックで乾杯! |
☆エレヴァン・コニャック工場
ホテルの窓から見るコニャック工場 | 世界的に有名なコニャック |
ヤルタ会談(左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン) |
アルメニアでコニャック製造が始まったのは1887年。 第二次大戦下の1945年、ヤルタ会談でイギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリンが会談した。 第二次世界大戦が佳境に入る中、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった会談である。 その会談の際、スターリンにアルメニア・コニャックをすすめられ飲んだチャーチルはその魅力に取りつかれ、生涯愛飲することになったというエピソードがある。 アルメニア・コニャックのラベルには、アララト山が描かれており、そのコニャック工場も「ARARAT」である。 |
☆ホテルの絵画
雪を抱いたアララト山、春でしょう | 繊細なタッチの冬景色、癒されました |
☆グム市場
アルメニアの首都エレバンの巨大な市場 | 外では大量のスイカが入荷 |
美味そう! 沢山試食させていただきました |
山岳地帯で収穫されるブドウは特別甘い | この葡萄で、世界で最高のワインやブランデー、コニャックが作られる |
豊富な果物 | 野菜の束ね方が個性的 |
東京ドームより広いかな? | 惣菜売り場、白いのは正月料理のナマスみたい | 乾燥果物 |
アルメニアの首都エレバンの市街南部、アリンベルドと呼ばれる丘の上にある都市遺跡。紀元前8世紀にウラルトゥ王国のアルギシュティ1世がこの地に要塞都市を建設した。
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エレバン市の南の外れ,町を一望できる小高い丘の上に,エレブニの遺跡はある。ここは紀元前782年,ウラルトゥ王国の王アルギシュティ1世によって 築かれた城塞の跡であることが,発掘された碑文から分かっている。現在のアルメニア共和国の首都エレバンは,このエレブニを語源としていると言われており,ウラルトゥも古代アルメニア人の王国だったと考えられている。 |
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共和国広場にある博物館。先史時代の発掘品から民族衣装、近代絵画にいたるまで、さまざまなものを展示している。興味深い展示が多いが、なかでも必見と思われるのは中世のフレスコ画。聖ステファンの胴から下しかない絵が壁一面を覆っていたりする。聖母像は、町を歩くアルメニア女性の顔をしていて、何となく親しみがもてる。 必見はトルコによるアルメニア大虐殺の写真である。何故か写真撮影禁止 |
豪華な建物 | 英語案内 |
トルコによる大逆殺の前に集められたアルメニア人。前列には子供達が・・・ この後全員が殺害。 |
アルメニア人虐殺は、19世紀末から20世紀初頭に、二度にわたりオスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件。 この一連の事件は「アルメニア人ジェノサイド(大量虐殺)」と呼ばれ、21世紀に至る現代でも、オスマン帝国の主な後継国家であるトルコ共和国を非難している。トルコ政府は、その計画性や組織性を認めていない。 アルメニア人社会では「虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられており、またオスマン帝国からトルコ共和国に至る「トルコ国家」が一貫した責任を有するとすると言われている。 アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている。現地ガイド嬢は300万人と云う。 迫害・虐殺に至る背景は2つから成り立っていた。 2つめは、19世紀に入るとアルメニア人の中からカトリックへの改宗などを通じて西欧諸国の庇護を受け、特権を享受する者が現れ、ムスリム住民との間に軋轢が生じ始めていた。宗教対立が原因である。 その後、オスマン帝国領内でアルメニア人民族運動が盛り上がり、アルメニアの独立を目標とする政党が結成された。オスマン帝国内では、アルメニア人を国内にありながら外国と通謀し「テロ」を行う危険分子と見なす敵愾心が高まっていき、やがては迫害・虐殺となっていく。 ナチス・ドイツがユダヤ人に対した大虐殺と類似していると言えよう。 |
1915年4月、オスマン帝国軍の武装兵により追い立てられるアルメニア人 |
事件 | 年代 | 犠牲者数 | 加害者→被害者 |
文化大革命 | 1966〜1977年 | 5,000万人以上 | 毛沢東→国民 |
大粛清 | 1930年〜 | 700万人 | スターリン→反体制者、宗教従事者 |
ヒトラーの大虐殺 | 1942〜1944年 | 500万人 | ドイツ→主としてユダヤ人 |
オーストラリアのアボリジニ狩り | 19〜20世紀初頭 | 数百万人 | オーストラリア入植者→原住民アボリジニ |
ポル・ポト政権の大虐殺 | 1975年〜1979年 | 170万人 | ポル・ポト政権→カンボジア国民 |
アルメニア人の大量虐殺 | 1915年 | 150万人 | オスマン・トルコ→アルメニァ人 |
ルワンダ共和国の大虐殺 | 1994年 | 100万人 | フツ族→ツチ族 |
☆共和国広場
共和国広場には、エレバン中央郵便局、アルメニア歴史博物館・国立美術館、「石の国」とも形容されるアルメニアでは石を使った建築物が多い。 |
アルメニアでは石を使った建築物が多い | 公共の建物が集中 |
☆ランチタイム
レストラン看板 | 前菜 |
スープ | 本日のメインはケバブとポテト、ワインとビールに連日酔いしれる |
☆現地ガイド (どちらが・・・)
2日目は英語ガイド、元歌手(唄に聞き惚れていました) | 大学生のガイド嬢は見習い中、しっかり研修せなアカンゼヨ! |
動画・・・アルメニア美人の歌姫 |
エチミアジンは、アルメニアにある同国第四の都市。アルメニア正教会の長の司教が居るため、その総本山として知られる。 人口61,000人。 |
エチミアジン大聖堂は世界最古の教会で、街の歴史の中心地でもある。啓蒙者グレゴリオスによって301年から303年にかけてアーチ型のものが建てられた。その間に、アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教に取り入れた。この大聖堂はユネスコの世界遺産に登録されている。 アルメニア正教の総本山 |
入口 | キリスト教 |
エチミアジンの聖堂と教会群およびスヴァルトノツの考古学遺跡は、アルマヴィル・マルツ地方にある。エチミアジンの聖堂は、アルメニア正教の本山として知られ、アルメニア風の中央ドーム、十字廊型の教会が発達し花開いた歴史を目の当たりに見せてくれる。エチミアジンの聖堂や、7世紀半ばに建設されたスヴァルトノツ聖堂などの建造物は、この地方の建築と芸術の発展に大きな影響を及ぼした。 |
巡礼者が絶えない | フレスコ画が天井、壁に |
☆これは必見! (キリストを刺した槍、ノアの方舟の破片)
キリストの脇を刺したローマ兵の槍 | ノアの方舟の想像図 | ノアの方舟の破片、十字架の下の木片 |
アルメニア北西部の古都エチミアジンにある教会。アルメニアで布教し、殉教した聖リプシマを祭る。7世紀に建造。現存する同国最古の教会建築の一つとして知られる。2000年に「エチミアジンの大聖堂と教会群及びズバルトノツの古代遺跡」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。リプシメ教会。 |
非キリスト教徒であるローマ皇帝等からの求婚を断り殺害されたリプシメを供養した教会 | 洗礼に訪れる信者達 |
洗礼 |
動画・・・洗礼を受ける |
ズヴァルトノツの遺跡は全くの遺跡で、聖堂の跡が野ざらしになっている。 当時をしのばせるのは、きれいな円形に配置された柱の数々である。 エチミアジンの大聖堂を参考に、当時の姿を想像してみるのも興味深い。 |
10世紀の大地震で破壊 | 後方にはアララト山 | 7世紀には高さ49mもある壮大な教会があった |
☆ディナータイム
白と赤のワイン、コニャック、ビールを味わう | 通称フロシキ、風呂敷で包んだ様。肉や野菜の煮込み料理 アルメニアで第1位の評価 |
街からはアララト山が至近距離で見られる |
ホルヴィラップはトルコ国境近くの小高い丘で修道院がある事で有名。現在のホルヴィラップ修道院は17世紀の建造だが、聖グレゴリウスが13年間幽閉されていたという地下牢が残っているので有名。
(画像:背景はアララト山) |
☆アララト山(ノアの方舟が辿りついた山、標高5165m)
アララト山とホルヴィラップ修道院、手前はブドウ畑 この地は標高760m |
動画・・・アララト山 |
右がアララト山(5165m)、左が小アララト山(3925m) |
赤いラインのあたりがトルコとの境界線。トルコの軍隊が終始見張り中。越境すると銃殺 |
丘の上にはホルヴィラップ修道院 | バックバッカーが見上げるアララト山 登るなよ、トルコ兵から銃殺されるぞッ! |
☆ホルヴィラップ修道院
ホルヴィラップ修道院は、聖なるアララト山を背景にもつ小さな丘の上にある修道院で、ホルは「深い」、ヴィラップは「穴」という意味。 アルメニアにキリスト教を広めた聖グレゴリウスが13年間、トゥルダト三世によって幽閉された地下牢があったところで、アルメニアのグレゴリウス教会の聖地で、アルメニア人の巡礼地の一つになっている。 もともとは牢獄で、キリスト教がアルメニアの国教になった後、聖グレゴリウスが幽閉されていたことを記念して、その穴の上に教会が建てられたという。 |
ホルヴィラップ修道院の下方にはトルコとの戦争被害者の御墓 | ホルヴィラップ修道院 |
ホルヴィラップ修道院の地下、聖グレゴリウスが13年間幽閉 | 牢獄の中は畳3枚ほどの広さ |
☆ランチタイム
レストランのパン焼き実演風景、右のオバサンが麺をのばす | 左のオバサンはアイロン台の様な所で形を作る |
アイロン台で穴の壁に貼り付けて焼く | 出来あがりっ! 美味しいよっ! 食べなさい |
大きなパンを持って喜ぶ日本のオバサン | 本日のメインはチキンと巨大パン(ナン) |
(画像はガルニ神殿から見るガルニの渓谷) |
アガルニはガルニ神殿がある町。神殿は、紀元1世紀にアルメニア王ミトリダテス1世によって建てられた。当時のアルメニアは、ローマの間接支配を受けていたので、神殿はヘレニズムの影響を強く受けている。また、この神殿は、アルメニアに残された唯一の異教のもの。 |
アルメニアの首都イェレヴァンから車で1時間ほど言った山間部に1世紀にトゥルダト1世により建設されたと言われるガルニの太陽殿がある。まるでギリシャを思わせるヘレニズム様式の神殿は、17世紀の大震災により崩壊したが、その後再建された。王族の避暑地として山間部に建設されたが、良くぞこの山の中にこのような大きな石を切り出し、建設したものだと感心してしまう。 |
神殿 | 渓谷 | 絶壁の避暑地 |
神殿は見晴らしのいい山の上に建っており、神殿近くには、ローマ浴場の遺跡があり、床のモザイク画が残っている。 |
浴場遺跡 | 石を温めて浴場に | 神殿全景 |
山間の村に、ゲガルド洞窟修道院があるだけのゲガルド。 (画像はゲガルドの修道院遠景) |
☆ゲガルド洞窟修道院(世界遺産)
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ゲガルド洞窟修道院は、アルメニア共和国にあるユネスコの世界遺産登録物件名。登録は2000年。キリスト教・非カルケドン派のアルメニア使徒教会の修道院建築とその周辺地域を対象とする。 |
アルメニアでも古い歴史を持つ修道院 | 牧師さん |
キリストの脇腹を突いた聖槍の一部がここで発見 | 岩から湧き出る聖水 | 信者は聖水を飲む |
☆ディナータイム
首都エレバンの地元有名店 | ワインはこれで | ブドウの葉で包んだ肉料理 |
ショー付き | ヨーロッパ系の観光客 | ガイド嬢はダンスは、上手い |
ナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャンの西部にある自治州だった地域。 独立側ではアルツァフ共和国と自称している。ナゴルノ・カラバフという呼称は、ソビエト連邦時代にカラバフ地方の東部山岳地方に対してロシア語で「ナゴールヌィ・カラバフ」(高地のカラバフ)と名付けられたことが元になっており、現地のアルメニア語やアゼルバイジャン語には基づかない。 本自治州は、アルメニア高地の東端に位置し、3000メートル級の山地に囲まれ、標高1000〜2000メートルの高地にある。クラーク川やアラクス川の流域を見下ろす地である。森林に恵まれ、高地には高山性植物が群生している。 |
ステパナケルトは、国際的にはアゼルバイジャンの領土とされていながら、事実上、同国から独立しているナゴルノ・カラバフ共和国の首都である。 町には5万人程度のアルメニア人が居住しており、他方でアゼルバイジャン人の住民は、ナゴルノ・カラバフ戦争の時に全て町を脱出している。 |
☆コーカサス3国のお家事情
アルメニアはアゼルバイジャンとナゴルノ・カラバフ問題で戦争をし、未だに国交は無い。しかも石油やガス管はソビエト時代に提供されていたが、独立後の戦争以来供給はストップしたまま。止む無く水力発電をしているが需要に追い付かない。国力が無いのである。トルコとは大虐殺の怨念があるので隣国とは云え、2009年まで国交がなかった。かたやアメリカはアゼルバイジャンと石油取引で友好関係なのでアメリカに近ずけない。しからばグルジアはどうだ。アルメニアと同様国力も資源もない。 アゼルバイジャンは石油、ガスが豊富である。だがインフレや経済事情で安穏としておれない。未だ戦争難民を多く抱えている。ロシアはその資源を狙っている。だからアメリカやヨーロッパ諸国に近づきたいので石油パイプラインをソ連経由のほかにグルジアやトルコ経由で2本追加し、ロシアの反攻に備えている。アメリカ、ロシアヨーロッパ各国と付かず離れず、等距離の外交である。 グルジアはやはり資源がない。アゼルバイジャンとは上手に付き合い、石油パイプライン二本を通過させてエネルギーも御裾分けの交際である。一貫してロシア嫌いなので、NATO,EUに参加したいと表明中である。アメリカの支援を取り付けたいが、アメリカも表向きと裏では信用出来ない。 世界の大国(アメリカ、ロシア、中国等)は資源のない国には興味を示さない。だからアゼルバイジャンは国内を見ても一番裕福である事と、大国も興味を示すだろうから石油・ガスを利用して有利に国際社会で動けるだろう。反面、アルメニアとグルジアは困難が続くであろう。 |
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終わりに・・・ アルメニアでは多くの事実を学んだ。 非常に気の毒なのは歴史博物館の展示物。大虐殺をある英国人ジャーナリストが世界に披歴したことから、世界に情報として広まったそうだ。アルメニアは小国ゆえにロシアやトルコに事実を大っぴらに出来ないジレンマがあるようだ。それは経済制裁である。 だから博物館には虐殺の写真等が沢山あるが、写真撮影はNOである。1枚だけ撮影禁止と言われる前に撮影した大量の犠牲者の集合写真がある。貴重な写真である。 アララト山とワイン、コニャックには癒される旅であった。 終わり |