ボリビア紀行 パートⅡ
ウユニ塩湖は、水平線と空の区別がつかない不思議な景観 |
旅の初めに・・・ 2015年3月、ボリビアの旅に出かける。 特に首都ラ・パスを期待しての出発となる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ボリビア パートⅠは下記 |
ウルグアイ、パラグアイを経てボリビアを巡る | パラグアイからサンタクルスへ入国し、スクレ、ポトシ、ウユニ塩湖を経てラ・パスを巡る |
☆ワンポイント情報
・国名 ボリビア多民族国 ・民族 先住民55%、混血32%、欧州系13% ・面積 日本の3倍 ・言語 スペイン語 ・人口 1,050万人 ・宗教 カトリック95% ・首都 ラパス(人口87万人) ・主産業 鉱業(亜鉛、錫、鉛)、農業(大豆、木材、砂糖) |
☆サンタ・クルス (第2の都市) (チェ・ゲバラ終焉の地)
海抜400m程度の高原にあり、年中温暖で年間の平均気温は28℃程度である。ボリビア第2の都市。 アマゾンの熱帯地方に環状に広がる。人々は陽気で開放的な性格であるといわれる。 ここから南西150kmの地イゲラで、「チェ・ゲバラ」 はボリビア革命の途中で殺害された。 |
☆到着
パラグアイ・アスンシオンからサンタクルス空港に | サンタクルス上空 | 空港内には御多分にもれずモラレス大統領の写真が掲載。未だ人気があるようだ |
☆ホテル
ホテルコルテスは小奇麗 | コンドルがお迎え | 中庭が南国風 |
☆9月24日広場 (独立の日)
教会前には広場がある。これは、サンタクルス地区がスペインから独立を勝ち取った日をとって「9月24日広場」と呼ばれ、スペイン植民地時代からの歴史的なサンタクルスの中心である。中心部に教会と広場。ここも典型的な、ヨーロッパ風都市である。 |
広場は市民の憩いの場 | 独立戦の英雄ワルネスの銅像 | 独立戦の英雄ワルネスの銅像 |
☆カテドラル
9月24日広場に面して建つカテドラルは、明るいレンガ造りの堂々たる建物である。 内部も銀細工の祭壇や天井画などが見事である。併設の博物館には世界最小の本(親指のツメ本)も収蔵されている。 |
広場に面するカテドラル | たたずむ女性 | 鳩と戯れる子供 |
☆市役所
瀟洒な白い殿堂の市役所 | 酔っ払いの樹 | 酔っ払いの樹の美と花 |
☆ランチ・タイム
地元の有名レストランへ | サンタクルスの人気レストラン | ファミリーの写真撮影 |
バーベキューもどき、各種の肉、ボリューム満点 | チャーハンもどき |
☆日本人移民の歴史
ボリビアへの日本人移民の歴史は1899年に第一次ペルー移民として海を渡った790名のうちの93名がラパス県北部のアマゾン地域へゴムの採取のために入植したのが始まり。 当時はゴム景気の最中で、その後も多くの日本人がアマゾンへと入って行った。 その後ゴム景気が衰えると、多くの移民がボリビア各地へ散り散りとなり、商店、理髪店、飲食店の経営などに従事した。 第二次世界大戦後には、サンタクルス県にオキナワとサンファンという二つの移住地がアマゾンの原生林を開拓して作られ、更に多くの日本人がボリビアに入った。そして日本人・日系人は農業、商業、政治・軍事・文化芸術など幅広い分野で活躍してきた。 |
☆スクレ (憲法上の首都)・(世界遺産)・(白の街)
スクレはボリビア多民族国の憲法上の首都(事実上の首都はラパス)である。 1991年、その町並みの美しさからユネスコによって世界遺産(文化遺産)に登録された。1826年のボリビア建国から1890年まではスクレが名実ともにボリビアの首都であった。 白く美しい建物が多いため、「白の街」と呼ばれることもある。 1825年8月6日にボリビア独立の調印がここで行なわれた後、1839年にボリビア独立の父にして初代大統領であるアントニオ・ホセ・デ・スクレにちなんで「スクレ」と改名された。
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☆サンタクルス→スクレ
リビア全土を網羅するアマぞネス航空 | スクレの空港 | ボリビア・スクレの文字 |
スクレの街並み、すり鉢状 | 道路が狭く車がヒシ巻き合っている | 車が長蛇の列 |
☆ホテル
オスタル・デ・ス・メルセーホテルは女性に人気 | 清潔なホテル、屋上から見る景観は抜群 | 植物に囲まれたホテルが人気 |
☆街の音楽隊
ボリビアはイベントが大好き、本日も音楽行進 | 子供から大人まで参加 | 悪ガキもニッコニコ |
動画・・・・・ボリビアの音楽隊 |
☆ディナー
旨いスープ | ラザニアかな? | 高山病に効果のあるマテ茶、、「飲むサラダ」とも言われている |
☆景観 (白の街と云われ、その美しさから世界遺産となる)
白い壁、赤い屋根は街中統一されている。スペインの統治らしい街づくり |
ホテルの屋上から眺める |
周辺で一番高い建物は教会 |
こちらも教会 |
白い壁、赤い屋根、青い空 |
☆小学校
ホテルの近くの小学校、先生がは単に見学OK |
制服姿の女の子、美人ですね~ | 赤い制服がとっても似合う、イヨツ、良い男! |
☆最高裁判所
憲法上の首都の首都ゆえ、最高裁判所がある | 裁判所の建物の マーク | 裁判所遠景 |
怒っているような現地ガイドは大学生で見習い中 | こちらも怒っている。魔除けとか | 周辺は公園 |
☆サンフランシスコ教会
1538年に建築された大きな教会。スクレでは最も古い教会の一つ。 美しいアーチと高い鐘楼、金箔の祭壇が見事である。 |
教会内部 | 教会の中庭には大砲・・・ | 飛行機まである |
☆交通整理はライオン?
交差点にはこの様な人が多数、大げさなゼスチャーで交通整理、とても愛らしい |
☆5月25日広場
1809年5月25日にスクレで発生した「チュキサカの反乱」は、一般には「自由の叫び」と呼ばれ、当時スペイン植民地であった中南米における独立運動の起爆剤になったといわれる特筆すべき出来事として記録されている。 |
広場は憩いの場 | スクレ将軍の像 | スクレは英雄 |
☆県庁と大聖堂
古都スクレの特徴は、16世紀に建造されて以来蓄積されてきたコロニアル様式の古い町並み。
一方、屋根は赤い色で統一。 |
大聖堂 | 県庁 | 県庁のマーク |
☆自由の家
自由の家はスペインから独立宣言文の調印が行われた歴史的な場所。1階は博物館になっており、ボリビア歴代64人の肖像画が並んでいる。 奥にはボリビアの独立運動で活躍した英雄シモン・ボリーバルの像が置かれている。 |
自由の家は博物館 | 看板 | 中庭 |
独立を指揮した英雄シモンボリバル | 同じくアントニオ・ホセ・デ・スクレ、スクレの町名はこの人から |
独立後は64人の大統領が入れ替わり変わった |
安定しなかった独立後のボリビア |
☆ボリビア独立宣言書
珍しい独立宣言書の展示 | オリジナルの独立宣言書、非常に丁寧に書かれている |
ボリビア独立の女性闘士 | 独立戦争の想像図 |
☆音楽行進
ボリビアはイベント好き、行進や演説会、デモも多い | 子供の内から参加 |
日なのに、これも学校行事? | 可愛い子供達 | 楽しそうに行進 |
動画・・・ボリビア:スクレの音楽行進 |
☆レコータ修道院
街の南東の高台にあるレコレータ修道院。1549年にフランシスコ修道会によって建てられた修道院で、美しいパティオ(中庭)を持っている。現在は博物館として内部が公開されており、16世紀から19世紀にかけての銀細工や、絵画、彫刻などが展示されている。 |
真っ白い建物が美しい | 広い中庭 |
☆スクレの景観
レコレータ修道院から街並みを見る |
高層建物が邪魔、時代には勝てないようだ |
さすが世界遺産 |
回廊から見るレコレータ修道院 | 中庭でサッカーに興じる女子高校生 |
アメリカンとランペッタ― | 名前? 綺麗! |
☆スクレ→ポトシ
ビューポイント | 吊り橋 | 大きな川 |
☆ポトシ(鉱山の町)
ボリビアの首都ラパスから南東に約 440 km に位置する。アンデス山脈中の盆地にあり、標高約 4,000 mと人が住む都市としては世界最高地点である。高山地域のうえ乾燥気候であるために植生には乏しい。 インディオの特徴を強く持つ人が多く、チョリータ(民族衣装)が多い。 町は1546年に鉱山町として設立された。人口も一時は20万人を数えたが現在は16万人。 労働力としてアフリカ人奴隷も連れてこられている。 |
☆ポトシへの道
既に3500mを超えて何処までも作物が青々と | トウモロコシ、大麦類が目立つ | 牧畜も盛ん |
アンデス山脈が延々と続く | ポトシの文字が、あと53km | ポトシ山(セロリコ)は4782m、銀が採掘された |
☆ポトシの街並み
ポトシの町は3800m程度、16万人が住む | 富の山セロ・リコの銀は全て宗主国スペインへ | ポトシの町に入る門 |
☆ホテル
コロソ・ポトシ・ホテルは5つ星なれど停電が・・・ | ビーには銀山のトロッコが展示 | ポトシ新聞、フンフンなるほど! |
☆ランチ・タイム
日本人観光客が多いレストラン | ようやく席確保 |
スープが人気 | ビールも美味い | ラザリア |
☆11月10日広場
ポトシの鉱夫たちが初めて集団でスペインに抵抗した日が「11月10日」。この日は「ポトシ創建の日」となっている。広場には「自由の女神像」が立っている。 |
☆サンフランシスコ教会と大聖堂
1547年創建のポトシで一番古い教会。隣には修道院がある。1707年に修復された。 教会内は博物館。 |
サンフランシスコ教会 | 教会の看板 | 大聖堂 |
☆旧王立造幣局
旧王立造幣局の中庭。現在、建物内部は貨幣博物館。壁が厚く、要塞のようだ。 16世紀半ば世界最大銀鉱脈の帝国都市として栄華を極め、当時スペインで流通していた銀貨はポトシの造幣局で製造されていたという。 |
入口 | 中庭 | 不気味な顔、原住民? |
スペインの状王女 | 当時の航海船 |
ポトシ山の上にはマリアさま、下はスペインの国王 |
鉱石を砕くための設備 | 重力はロバで | 一人の人間がロバを動かす |
砕いた鉱石を高温で銀を取り出す | 銀 | 金庫、中はこの様に精密 |
日本の車がまだ活躍 | ポトシの町 | ポトシの町は少し低く、3860m |
☆ポトシ→ウユニ塩湖
異様な山並みが続く | ビューポイント |
羊と馬が無数 |
雨季の間は草が、乾季は赤茶けた大地となる |
資源が沢山ありそうな大地 |
ビクーニャの毛は天然繊維で貴重、数え切れないほど沿線で見かける。この2頭はラブラブ? | 4000mをバスが行く |
☆ウユニ村
白いウユニ塩湖がはるかに見えてきた | ボリビアの民族衣装チョリータ | ウユニ村、ウユニ駅 |
☆列車の墓場
スペインの統治時代の列車の捨て場 | 数え切れないほどの列車 |
☆ウユニ塩湖
ウユニはボリビアの西側にある小さな町。塩の生産と観光が産業のほとんどを占めている。 ウユニ塩湖はボリビア中央西部にある塩の大地。標高約3,700mにある南北約100km、東西約250km、面積約12,000平方キロメートル(四国の2/3) の広大な塩の固まり。 乾期(7月頃~10月頃)には塩原はほぼ乾いておりその上を自動車で簡単に走行できるが、雨期には若干の水が溜まり場所によっては自動車による走行ができないところも現れる。 アンデス山脈が隆起した際に大量の海水がそのまま山の上に残されることとなった。さらにアルティプラーノは乾燥した気候であったこととウユニ塩原が流出する川を持たなかったことより、近隣の土壌に残された海水由来の塩分もウユニ塩原に集まって干上がることになった。こうして世界でも類を見ない広大な塩原が形成された。 この塩原は高低差が50センチしかないことが調査により判明しており、「世界でもっとも平らな場所」でもある。そのため、雨季に雨により冠水すると、その水が波も立たないほど薄く広がるため、水が蒸発するまでのわずかな期間に「天空の鏡」と形容される巨大な鏡が出現する。 塩原の周囲に住む人たちは、塩を国内外に販売している。一般の食用の塩は、湖の表面の塩を削り取り1m程度の高さの小山を作って乾燥させて作る。 塩原の中程には、観光客用に塩で作ったホテルが建てられている。壁もテーブルもベッドも全てが上記の塩のブロックで作られている。 ウユニ塩原はリチウム埋蔵量で世界の半分を占めると見積もられている。電気自動車の電池などリチウム需要は将来的に高まると予想され、新たなリチウム産地としても注目されている。 同じく塩原の中央付近に「魚島」という島がある。高さおよそ40mの島には、サボテンが多数生えている。 ・・・ウィキメディア フリー百科事典より・・・ |
☆ウユニ塩湖 (塩のホテル)
塩のホテル「クリスタル サマナ」 | ホテル名 | 壁も塩のブロック |
ホテルは数件 | レセプション |
レストラン(2F) | 壁一面も塩 | ベッドも塩、卓台も塩 |
寒さ対策のヒーター | 洗面所とシャワー室 | 廊下 |
四駆で出発、塩採取の山 | いくら採っても無くならない塩 |
塩湖の中のホテル、一番最初のホテル。顧客の多い国の国旗が並ぶ |
6角形の見事な結晶、水が作用しての現象 | 思い思いに写真を撮る |
足で、前方の人を踏みつける様に撮影工夫する |
☆イスラ・デ・ペスカ (魚の島・サボテンの島)
塩湖のど真ん中の島にサボテン島が現れる | 頂上まで標高差90m | イラスト看板 |
20分程度で頂上 | 巨大サボテンが林立 |
動画・・・・・ウユニ塩湖の中のサボテン島 |
オッ! 透明人間か。 いや、サボテンマンだ | ケルンまで積んである |
日本の国旗もある。最近は日本人が多い。 | 落語の師匠は何をしてもサマになる |
☆湖上ランチ・タイム
島から至近距離で速成レストランが作られた | ビュッフェ・スタイル |
手の平に女性が、トリックが面白い | 野獣とマドンナ | 師匠は照れている? |
☆湖上のアフロディーテ・コーナー
幻惑させられる景観、湖水と空が一体 |
動画・・・・・ウユニ塩湖の大自然 |
アフロディーテーとは愛と美と性を司るギリシア神話の女神 | ギリシア神話では最高の美神として選ばれている |
動画・・・・・天地の境目に立つ女性 |
『ヴィーナスの誕生』 とも云われるアフロディーテー | 塩湖にたたずむ女性、映画ロケでしょうか? |
動画・・・・・異次元を陶酔する女性 |
塩湖でワインを含むアフロディーテー |
動画・・・・・仙境に憩う女性 |
アフロディーテーは赤ワインがお好き | 塩湖レストランで美味しそうにホホバる | 塩のレストランの赤ワインで乾杯! |
☆ ボリビアと資源
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☆ウユニ塩湖→ラ・パス(首都)
ウユニ飛行場 | 広大な飛行場 | 建物が全くない |
☆ボリビアとは。。。
モラレス大統領 最終学歴は中学卒であり、本人は「人生という大学で学んだ」と名言。 |
ボリビアは国の面積がアメリカ大陸では8番目に大きい国であるが、かつてはより広大な国土面積を有し太平洋沿岸部にも領土があったが、周辺国(チリ、ブラジル、パラグアイ)との戦争に負け続けたために現在では最大時の半分ほどになってしまった。 南半球にあり、晴れていれば南十字星が見える。 独立前はアルト・ペルー(上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリバル将軍と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。 2001年に世界最大規模の天然ガス田が発見され、ボリビア経済再生の頼み綱となっている。 南部のウユニ塩原には推定540万トンのリチウム(世界埋蔵量の半分以上)が埋蔵されていると見積もられているが、ボリビア政府にはそれを抽出する技術も資本も持ち合わせていない、という事情がある。 |
☆首都ラパス
中心街の標高は3600m強で、すり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。 おおざっぱに言うと、すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の部分に低所得者が住んでいる。
山岳地域からの雪解け水や地下に水脈があるため、水に不自由することはほとんど無いが、インフラ整備が遅れているため、断水することがしばしばある。 空気が希薄であることと、ほとんどの家が「アドベ」とよばれる日干しレンガで造られていることから、火事はめったに発生しない。 空気が希薄なために、吸っていないタバコの火が消える、ビールやコーラが激しく泡立つ、袋菓子、シャンプーなどが膨れあがったり破裂する、輸入品の粉クリームのふたを初めてあけるときに粉が吹き出るなど、高地特有の様々な現象が起きる。 酸素が不足するため、旅行者は高山病にかかりやすい。 急な坂だらけの街であるので、長く住んでいる人でも息が切れて苦痛を感じることが多い。 空港には酸素マスクが常備されている。高山病にかかったときにはコカ茶を飲むと症状が緩和されると言う。 |
☆コルアルトとワイナ・ボトシ
実質上の首都ラパスに隣接し、ラパス都市圏の一部を形成する。ラパス市街は峡谷の地形に構築されたが、エル・アルトはその南西に位置する高原平地にあり、標高4,150mで世界で最も標高が高い都市の一つである。 ラパス市街(写真下方)に富裕白人支配層が住み、その上(写真中程)にコルアルトの街が広がり、そこに貧民層である原住民が住んでいる。人口が83万人で、下方の首都ラパスより多く、丘の上に更に広がりを見せている。 乾燥させた草を補強に混ぜた現地の土から成型される「アドベ」と呼ばれる日干しブロックを積んだ建築物によって、低層ではあるが密度の高い街区が構成されている。 白く雪を被った山はワイナ・ボトシ(6,088m)。登山で人気の山である。
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☆ラ・パス 到着
エルアルトの街、飛行機から撮影 | 4150mのエルアルトの飛行場はラ・パスの上にある |
☆ワイナ・ボトシ (白い山)
ワイナポトシは6088m | 白い山、登山で人気の山 |
☆ラ・パス→ティワナク遺跡
ラ・パスから出発既に3950m | ラ・パス市内 | クラシック・カーの様なバス |
ペルーの境界線を目指して、ティワナク遺跡へ向かう |
☆ティワナク遺跡(世界遺産)
ティナワク遺跡はプレ・インカ期(インカ帝国以前のアンデス文明)の遺跡で、チチカカ湖沿岸から内陸へ約17 kmほど入ったところにある。 現在、遺跡は一部復元されているが、そのほとんどが徹底的に壊されており、また風化も激しいため、昔日の面影はほとんど残っていない。 この遺跡は宗教的巡礼地であり、普段は人々が住むことのない場所、としばらくの間、考えられてきた。それは征服者や欧米人にとって、この地域があまりにも自然環境の厳しい土地に映ったからである。標高が4000 m近くあり、ほとんどの食用栽培植物は育たない。このような地域では、多くの人口をまかなうだけの食糧の生産もできず、国家レベルの複雑な社会など成立しようがないと長い間思われてきたのである。 しかし、近年の調査によって、この遺跡の周囲にはかなりの住居址が存在していることが確認され、当時は都市的様相を呈していたことが次第に明らかになってきた。
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遺跡の入り口 | 博物館 | 博物館に収められた月の門 |
山々に囲まれた遺跡跡 | 世界遺産マーク | 赤い花が1輪 |
マチュ・ピチュ遺跡より古いこの遺跡 | 鉄も何もない時代、どうして掘ったか未だに疑問が残る | 紀元前1,000年頃の物らしいが |
生贄台は雨乞いの為、灌漑施設を持たなかった為に文明が滅ぶ | 太陽の門 |
何かを語る・・・ | 機械もない時代、なぜ巧妙に石を積めたのか |
周辺には野生のビクーニャが遊びに来る | 民族衣装の女性 |
地下神殿 | 様々な顔が並べられている | 入口の門 |
家屋跡 | 4000mに住む家畜 | 畑も青々、ここは富士山より300mも高い |
☆チェ・ゲバラ像
ラ・パス市内のチェ・ゲバラのオブジェ |
☆チェ・ゲバラとボリビア
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ゲバラはキューバ革命後、1965年中にコンゴ民主共和国に渡り、コンゴ動乱後混乱が続く現地で革命の指導を試みたが、コンゴの兵士達の士気の低さに失望する。 カストロとの会談の後、新たな革命の場として、ボリビアを選んだ。しかし、独自の革命理論に固執したため、同士の協力は得られなかった。 ゲバラを危険人物とみているアメリカCIAの指示で捕えられ、ボリビアの小村イゲラで最後となる。政府軍兵士に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。 銃撃を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」が最期の言葉であった。 ゲバラの生涯と思想は、反米的思想を持つ西側の若者や、冷戦下における南アメリカ諸国の軍事政権下で革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツやポスターに印刷されるシンボルとなった。南アメリカ諸国の大学では、現在でもゲリラ時代のゲバラの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。 「風はキューバから吹いてくる」という名文がある。 |
ラ・パスの市内は谷底の下にある様 |
☆キリキリ展望台
「グランドキャニオンの中に大都市が存在する」と言われる展望台から見るラパスの街並み。 展望台から見下ろすラ・パス市街の風景はなんとも壮観で、すり鉢状の斜面にびっしりとへばりつくように立ち並ぶ 赤レンガの家々の様子が眺望できる。そして底面にはビル群も建ち並んでいる。 |
すり鉢にへばりつくようなラ・パスの景観 |
動画・・・・・衛星放送アンテナの中の大都市 |
☆ランチ・タイム(日本食レストラン)
日本食レストラン「ニュー東京」 | 庭園も日本式 | 左上からなます、カボチャ煮、天ぷら、鮭煮、ホウレンソウ |
☆月の谷
ラパス市内から車で1時間くらいのところにある月の谷は、月面のように見えることからこの名前が名付けられた。 岩地が侵食され何本もの面白い形をしてそびえている。岩肌は侵食によってさまざまである。 |
浸食の芸術品 | 遊歩道がある | 神のいたずらか? |
谷底には富裕層、高所には低所得者が住む |
動画・・・・・すり鉢状の都市 |
☆ムリリョ広場
独立運動の先駆者で処刑されたペドロ・ドミンゲス・ムリーリョの名前から命名されたムリーリョ広場、ボリビアの政治の中心。 周囲には大聖堂、議会、大統領府がある。 |
広場は憩いの場 | 大統領府 |
土産物街 | 魔女通り |
☆サンフランシスコ寺院
ラパスのへそのようなところに建つ教会で、付近にはサガルナガ通りや市場など賑やかなエリアが続いている。教会の内部は薄暗いが荘厳な造りである。 |
サンフランシスコ寺院の看板 | サンフランシスコ寺院 |
☆ボリビア略史
・約3,000年前 プレ・インカ文明 ・10世紀頃 インカ族の侵入 ・1400年 インカ帝国の一部となる ・1532年(292年間) スペインの植民地 ・1824年 独立。シモン・ボリバールの援助 ・1879~1883年 チリとの争いで敗れ、太平洋岸地帯を失う ・1903年 ブラジルとの争いで国土の一部を失う ・1928年~1935年 パラグアイとの争いで国土の一部を失う ・1964年 軍事政権 ・1966年~1967年 キューバ革命の指導者「チェ・ゲバラ」がボリビア革命の指導中、捕えられ戦死。 ・1982年 民政移管 ・2006年 ボリビアでは初の先住民出身となるエボ・モラレスが大統領となる。 |
旅を終えて・・・ ボリビアは南米でも貧しい国の筆頭だが、どこに行っても活力を感ずる。 国民の幸せは単に物資の豊富さとは言い切れない。心の充実も必要だ。日本とボリビアを比較した時にその辺が窺がわれた。 それにしてもウユニ塩湖は広大である。そして日本人ツアーが多い。また若い女の子二人連れが良く目立った。しかし若い男が見当たらなかった。気にかかる現象である。 終わり |