「夏の思い出」・・・・・・・2013年7月

 

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今年の夏はどこにしよう! 

                     久し振りの尾瀬が良い !

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 ニッコウキスゲが咲く尾瀬ヶ原、前方は日本百名山の燧ヶ岳(ひうちがたけ)

 

              
               夏が来れば 思い出す
               はるかな尾瀬 とおい空
               霧のなかに うかびくる
               やさしい影 野の小路
               水芭蕉の花が 咲いている
               夢見て咲いている水のほとり
               石楠花色に たそがれる
               はるかな尾瀬 遠い空
                              作詞者:江間章子
                                  作曲者:中田喜直

 
 ルートは、鳩待峠発〜温泉小屋(泊)〜尾瀬沼〜大清水の、尾瀬ヶ原一周

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  ☆事前歩行訓練 

 恒例の本州遠征は、久し振りの尾瀬とした。歩行時間が2日間と長いので、運動不足解消とともに事前の歩行訓練を行う。
 札幌のサトランド、藻岩山でお茶を濁すこととする。

 

 

 

 本日は4時間の歩行

 高さ50mの山を何回登るかで議論伯仲、呑気なもの

 そろそろ疲れ、寡黙行進?

 

 

 

 昼食は名物ジンギスカン鍋

 メンバーに笑顔が戻る

 1人前1,000円で満腹、せっかくの運動なのに・・・

 

 

 

 

 酪農王国、北海道の牛乳。本日はサツラク牛乳の飲み放題

 

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    ☆東京→群馬県上毛高原→戸倉

 

 

 

 

 東京駅前で記念撮影、おのぼりさんです

 

 車中での駅弁とビールをゲット

 

 

 

 Maxたにがわ 2階建て新幹線

 

 越後湯沢行

 

 

 

 東京駅ホームでマレーシアの若者グループと交流

 

 お互い片言の英語で通じたのかどうか

 

 

 

 牛たん弁当が美味い

 上毛高原には1時間強

 2階からの眺めは最高でした

 

 

 

 上毛高原からは、バスで尾瀬の玄関口「戸倉宿」へ

 

 戸倉宿の街並

 

 

 

 旅館みゆきに1泊

親切な女将さんが迎えてくれる 

ナトリウムのスベスベ温泉 

 

 

 

 食べきれないほどの夕食、酒は清酒「谷川岳」

 

朝食、ワラビ入りの味噌汁が絶品 

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   ☆戸倉→鳩待峠

 http://tabinootoko.web.fc2.com/oze40.jpg

 

 

戸倉から車で20分、登山口鳩待峠へ 

2〜3百人はいるでしよう 

尾瀬ヶ原方面3.3km 

 

 

 

100名山の至仏山へもゾロゾロと 

ツアー客が次から次へ 

鳩待峠は標高1591m、 至仏山登山口はすぐ向かい

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  ☆鳩待峠→山ノ鼻

 

 

 

 

「背負い子」が次から次へと尾瀬ヶ原へ 

尾瀬の入口 1591m 

木と石の階段で、200mを下る 

 

 

 

 

昨夜の雨で滑りやすい、続々ハイカーが続く 

 

樹林の中、木道を歩く 

 

 

 

 

ブナの新緑がまぶしい 

 

 尾瀬のハイカー・・・

 今や人気の尾瀬、毎年35万人のハイカーが押し寄せる。ひとえに山ガールの存在もあるのだろう。

 ここ2年ほど、尾瀬を訪れる人に、若い20代30代の方が増えてきたそうである。
特に増えたのが、20代、30代の山ガール。若い女性が増えるのは尾瀬にとって、大変いいことだそうだ。
 なぜなら、若い女性が増える⇒若い男性がつられて増える⇒入山者増。

 

 

 

 標柱が絶え間ない、さすが尾瀬

川が幾本も 

H23年作成の木道、東電のマーク 

 

 

 

尾瀬は熊が多い、熊に知らせる鐘が随所に 

 

各種の植物が表れる 

 

 

 

1時間で山ノ鼻到着 

尾瀬山ノ鼻ビジターセンター 

ビジターセンター内部、天候等の情報を聞く 

 

 

 

 

山ノ鼻には国民宿舎のロッジや山小屋が数件 

至仏山への登山口、現在は登りのみで下りはNO 

アザミが出てきた 

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   ☆山ノ鼻→東電小屋

    

 

 

クルマユリ 

ニッコウキスゲ 

カキツバタ 

 

 

 

雨の予報が一転晴れ、心も腹ばれ 

コバギボウシ 

尾瀬ヶ原は全て木道、感心します 

 

 

 

 

尾瀬ヶ原は殆どの木道が複線 

 

 

 

 

池塘 の中に蓮

 

ホロムイソウ 

 

 

 

 キンコウカの群落

 

蓮の葉をかき分けて、ヒツジグサが 

 

 

 

ジッと池塘を眺めるカップル。オジサン達は尋ねる。ヒツジグサが・・ 

 

午後2時頃に咲く花なのでヒツジグサと名がついた 

 

 

 

 

幼稚園の子供達、お揃いの帽子、弁当と水をお揃いの黄色い布でたすき掛けで背負い、皆元気 

 

 

 

 

常に燧ヶ岳を見ながら 

東電小屋方面に向きを変える 

多くのハイカーが通り過ぎる、休憩場所 

 

 

 

ヒツジグサは時間を忘れたように咲いている 

 そろそろ、ニッコウキスゲが木道の側に

ニッコウキスゲと燧ヶ岳 

 

 

 

 

ニッコウキスゲと、ワンポイントでアザミの赤が 映える

 

 

 

 

ニッコウキスゲ群落、鹿が随分食べたらしい 

 

モウセンゴケ(食中植物)は虫を食べて生きている 

 

 

 

しきりに池を見る 

 細い幹の上に、白い花が

熊注意! そう、ここは熊の生活圏 

 

 

 

左は今来た山ノ鼻、牛首方面。東電小屋へ向かう 

 

ヨッピ吊橋を渡ればすぐ東電小屋 

 

 

 

東電小屋が見えてきた 

 

東電小屋は、東電の子会社が尾瀬で5つの山小屋を営む 

 

 東電の深慮遠謀・・・

   大正11年(1922)関東水電(東電の前身)が尾瀬の水利権を獲得、尾瀬ヶ原をダムにして発電所を作る計画を発表。
それは、尾瀬ヶ原をダムにし、尾瀬沼・尾瀬ヶ原間と至仏山にトンネルを掘って発電所を作る計画を発表した

 しかし、尾瀬沼の漁業権を持っていた平野長蔵(山小屋長蔵小屋の創始者)は、「山岳河川は政府・政党・資本者の創作建設せし遊戯物にあらず、自然の大霊の産物だ。河川沿岸の住民の犠牲で作ってきたものだ。」と、尾瀬の自然と自らの権利のためこれに反対したが、志半ばで逝ってしまった(昭和五年)。

 その後、東京電力は東京の電力需要に応えようと、只見川に流れている尾瀬沼の水を群馬県片品川に流す分水計画をたてた。
反対運動にも関わらず、昭和十九年には取水工事が始まり、戦争により一時中断したが、それも昭和二十二年には再開され、尾瀬沼の南岸には取水口が設けられた(昭和二十四年十一月)。

 これを機会に「尾瀬保存期成同盟」が結成され、これが日本における自然保護運動のさきがけとなったのである。そし
て、取水工事に伴うものと、取水開始による沼の水位変動などから、湿原の景観が少しずつ変わっていった。

 1956年に尾瀬地域が天然記念物に、1960年には特別天然記念物に指定され、その時点で発電所計画は事実上不可能になっていたものの、東京電力は1966年まではこの地に発電所建設計画を持っていた。また、それ以降も太平洋側への分水路建設計画は残されていた。東京電力が発電所建設や分水路建設計画を正式に断念するのは1996年になってのことである。ただし現在でも尾瀬地域の群馬県側は全てが東京電力の所有地である。

 尾瀬林業株式会社は、かつて存在した東京電力の子会社であり、尾瀬地域の群馬県に所有する東京電力の所有地の管理、自然環境保全を主業務としていた。

 本来は尾瀬におけるダム建設の一翼を担う会社として設立されたが、その後の尾瀬の保護活動の進展により、木道の建設や浄化槽式トイレの建設、湿原の復元など、環境省や各自治体と並び尾瀬を守る活動の主体のひとつとなり、アヤメ平の復元事業も行っていた。また、尾瀬地域の5つの山小屋の経営母体でもある。

 こうして東電の尾瀬地区ダム化は、平野長蔵の自然保護運動によって頓挫した。しかし、大企業東電は国の原子力政策で福島の大惨事を起こすこととなる。常に目先の利益追求で、かじ取りを誤る東電の姿が未だに存在し続けている。

 はたして東電は自然保護、自然環境、人命の尊さと言う事についてどのように考えているのだろうか。

 

 

 

昼食タイム、カレーとビールで乾杯 

 「背負い子」さんは平均60〜80kgを背負う

60才位まではと・・・冬は酒屋の杜氏をするという 

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  ☆東電小屋→温泉小屋(泊)

 

 

 

 

クルマユリが鮮やか 

ブナと白樺の葉が新緑 

立派な橋 

 

 

 

 温泉小屋の先には三条の滝(名瀑100選)

今夜の山小屋は、この温泉小屋  1420m

 

 

 

 

収容人数180名、温泉が売りの山小屋 

 

 81年営業、山小屋と言うより旅館風でピカピカの内部

 

 温泉小屋のホームページは →  こちら

 

 

 

自家発電で自販機も 

寛平ちゃん親子も泊まる 

アルピニストの野口 健も 

 

 

 

綺麗な食堂 

加温ながらも温泉 

朝食。夕食も美味しかった 

 

 

 

 4代目の経営者。私でお終いでしょうと寂しく語る

 

記念写真。経営者はツイッター に掲載しますとカメラを構える

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   ☆温泉小屋→見晴

  

 

 

 

前日夜の天気予報は100%雨、しかし快晴でした。ラッキー!!! 

 

夕べは雷、稲光、雨。 朝露に濡れる花がまた綺麗 

 

 

 

 見晴、下田代十字路とも言うこの辺は6件の山小屋

250名収容の弥四郎小屋 

大学時代、ここで2年間アルバイトしたと言い、懐かしむ 

 

 尾瀬の山小屋・・・

 尾瀬には山小屋が22件、収容人数でカウントするとおよそ2,500人が宿泊可能である。
日本の山小屋の中では、綺麗、規模が大きい、食事内容も良く、風呂が併設されている小屋が多いので有名である。山小屋と言うより、寝具も綺麗、設備の整った旅館とも言える。
 ひとえに山小屋の努力もさることながら、尾瀬が標高差200〜300mと高度差がない事と、日本一の高層湿原で、高山植物が多い事にも人気の秘密があるのではないだろうか。

 

 

 

燧ヶ岳からの恵み、弥四郎清水は冷たく美味い 

 

山ガールも、次から次と水を汲む 

 

 

 

 桧枝岐小屋

 

尾瀬小屋 

 

 

 

第2長蔵小屋、第1と合わせ収容360名以上の大きな小屋 

 

原の小屋 

 

 

 

見晴から尾瀬沼へ向かう、これからは山道 

燧ヶ岳への登山口「見晴新道」 登り4時間コース 

尾瀬沼入口まで6.5km、2時間は山道が続く 

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  ☆見晴→(白砂峠)→尾瀬沼

 

 

 

 

尾瀬ヶ原とは違い、樹林帯が続く 

樹林が太陽を避けてくれる 

木道もそろそろ終わり 

 

 

 

ブナ、シラビソ、白樺の樹林帯 

燧ヶ岳から流れる川が随所に 

岩や木の根っこが続く 

 

 

 

 白砂峠

水芭蕉の葉っぱ 

平地は木道が 

 

 

 

尾瀬沼の西端には沼尻休憩所 

 

のどかに歩くハイカー 

 

 木道・・・

 ほぼ全域にわたって木道が整備され、木道以外の場所を歩けないようにしてあるのも、尾瀬の特徴である。尾瀬に最初の木道が設置されたのは1950年代と言われている。

 現在では木道の目的は湿原を登山者の踏みつけから守るものへと変化している。なお、複線部分の木道は右側通行となっている。

 木道の設置・更新工事は、現在は福島県域では福島県によって、群馬県域では群馬県と東京電力によって、新潟県域では東京電力によって行われている。

 

 

 

 

尾瀬沼の西 「沼尻」 

 

 

 

 

 

絵になる景観 

 

 

 

 

燧ヶ岳への登山口沼尻コースは登り2時間強、長英新道は3時間強 

 

尾瀬沼の東端大江湿原まで40分 

 

 

 

 

大江湿原はニッコウキスゲの大群落。  東に行くと福島県桧枝岐村へ、南へ行くと群馬県大清水、片品村へ 

 

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     ☆山ガール登場

 

 

 

とにかく尾瀬は山ガールが多い 

 

カップルも多いが女の子同士も多い 

 

 

 

明るい笑顔 

女性が圧倒的に多い。男はアルプス・岩か・・・ 

ファツションが可愛い〜 

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   ☆尾瀬沼→(三平峠)→大清水

  

 

 

 

左は小淵沢田代、沼山峠、御池、桧枝岐へ。右が三平峠、大清水 戸倉方面

長蔵小屋、収容人数268人で尾瀬一番の収容数 

4代前の創業者平野太郎が明治43年開業、104年の歴史がある、尾瀬で最初の山小屋 

 

 長蔵小屋の悩み・・・ 

 平野長蔵は、明治二十二年燧岳への登山道を開き、燧岳神社の参籠所を開設、明治四十三年に最初の小屋を沼尻に開設した。その後、東京電力の前身である関東水電が尾瀬ヶ原ダム計画の構想を立て、権力者を使うなどして、水利権獲得に乗り出した。尾瀬沼の漁業権を持っていた長蔵は、「山岳河川は政府政党資本者の創作建設せし遊戯物にあらず、自然の大霊の産物だ。河川沿岸の住民の犠牲で作ってきたものだ。」と、尾瀬の自然と自らの権利のためこれに反対したが、志半ばで逝ってしまった(昭和五年)。

 「先生になりたかった」と回顧していた子息の2代目長英は、十五歳で(大正十五年)尾瀬に入り、長蔵亡きあとは昭和5年に小屋を引き継いだ。
その頃、東電は東京の電力需要に応えようと、只見川に流れている尾瀬沼の水を片品川に流す分水計画をたてた。しかし、長英達の熱心な反対運動にもかかわらず、残念ながら昭和十九年には取水工事が始まり、尾瀬沼の南岸には取水口が設けられた(昭和二十四年十一月)。
しかし、これを機会に「尾瀬保存期成同盟」が結成され、これが日本における自然保護運動のさきがけとなったのである。

 さらに、京都大学を出て北海道新聞の新聞記者の職に就いていた長英の長子長靖(3代目)もまた、弟の不幸などから志を捨てて昭和38年、山小屋を継ぐことになる。
 三代目が直面したのは、観光自動車道の建設計画である。確かに、群馬県戸倉から大清水を経て、福島県沼山峠へ抜ける山道は、古くから上州と会津とを結ぶ交易の道であり、出稼ぎ人々が行き交う道でもあった。ほぼ、そのルートに沿って、経済成長から置き去りにされた山村の産業振興と観光を目的に、自動車道を建設しようとするものである。

 三代にわたって見続けてきた尾瀬の自然が、道路建設に伴って、一つずつ失われていくことを座視できなくなった長靖は立ち上がった。行政や戸倉住民が賛成する、観光客誘致と道路計画に一人反対するのには、大きなエネルギーを必要とした。折しも、この昭和四十六年には環境庁が発足し、「環境行政は
長期的な見通しの下に、一元化の努力をしたい。一度失われたら二度と戻らない自然保護に力を入れたい。全国各地につぎつぎと作られている観光自動車道路はもうやめてもらいたい」と発言して、大石武一氏が初代長官に就任した。

 大石氏との出会いが流れを変えた。

 就任直後に尾瀬を訪れた長官は、「すでに認められた道路計画であるが世界的な高層湿原植物の宝庫である尾瀬の自然を守るために、工事の凍結と大清水駐車場の建設を認めない」と語った。

 その年、昭和四十六年十二月、豪雪の三平峠で長靖は還らぬ人となった。36才であった。春にはヤシオツツジが咲き、秋には見事に黄葉するブナの林が広がる通い慣れた道であったが、山小屋経営の中で自然保護運動に奔走した体には耐えられなかった。

 そうした三代にわたる自然保護への力強い行動が今の尾瀬となっていることに感謝せざるを得ない。また、日本の自然保護のさきがけとなった人物で、自然の大事さを身をもって教えてくれた偉人たちである。

 そして現在の4代目太郎へと継がれていく。小屋の廃材や廃棄物を地下に埋めて社会問題となった事は記憶に新しい。そして行政処分となる。表面上は全てが長蔵小屋が悪いと考えられがちだが、長蔵小屋のすぐ近くには環境省日光国立公園の管理事務所があり、管理官が常駐している。管理事務所がこれだけのことに気がつかず、ことが明らかになるまで指導ひとつしなかったというのも釈然としないと言われている。

 山小屋経営は現在多くの課題を抱えている。行政で健康の為に国民のスポーツ熱を推奨、ひいてはハイカーも多くなる。山小屋もドンドン多くなる一方、多くの規制が一方的に厳しくなる。トイレ浄化槽の設置、廃材の尾瀬以外への撤去等は山小屋だけでは対処できない事である。しかし、お役所は見て見ぬふり。その結果が廃棄物地下埋め立て事件である。
 
 04年8月には尾瀬ヶ原の見晴地区にある「弥四郎小屋」と「檜枝岐小屋」が、ダイオキシンの規制強化を受けての「ごみは域外に搬出し処理する」との申し合わせに反し、小型焼却炉で燃やしていたことが発覚した。これもまたごみの域外排出コストを惜しんだ事件だといえる。

 2週間に一度のヘリコプターによるごみの域外搬出には1トン約10万円がかかるという。景気のいい時にはこうしたコストも負担できたが、宿泊客の減少の中でこうした自己負担に耐えられなくなりつつあることが、こうした事件の背景にあるということだろう。
 
 1畳に3人が寝かされるような、日本アルプスや富士山の山小屋のように、活況が再現すれば、山小屋の収益も上向いてこうしたコストを負担できるかもしれないが、それでは尾瀬は利用人口の圧力によって尾瀬全体の自然荒廃がさらに進む。一方このまま宿泊者の減少がつづけば、山小屋の営業に伴う環境保全のコストを負担できなくなってくる。尾瀬の山小屋は今、こうしたジレンマに陥っている。

 今、尾瀬の山小屋経営は利用人員はそれなりに多いが、利益に繋がらないそうである。規制が多くなってきたためである。今回、3件の山小屋の悩みを直接・間接的に聞いた。競争、利益、多くの規制、冬場の休業、設備投資、そして何より重要なのが後継者である。決してうまみのある企業とはいえない。3件の経営者が寂しそうに語った。こんな苦労は子供に継がせたくない、自分の代で終わりです、と。

 

 

 

 

長蔵小屋前の 尾瀬沼ビジターセンター

 

三平峠前、燧ヶ岳を見るビューポイント

 

 

 

 尾瀬沼西の、沼尻まで30km地点

 

三平峠まで標高差100mの山越えが待つ 

 

 

 

ビジター・センターから大清水まで およそ2時間、カラマツ林が続く

 

石清水の水場 

 

 

 

 一ノ瀬休憩所、茶店風

 

行きも帰りも 、ここで鋭気を養う

 

 

 

マイタケご飯がとっても美味しい、味噌汁にもキノコやワラビが 

 

左のズッキーニの炒め物は最高に旨い、しかもサービス 

 

 

 

一ノ瀬休憩所から50分で最終地点大清水へ 

大清水 1180m 

大清水から尾瀬沼への登山口 

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   ☆大清水→戸倉→沼田→水上温泉(泊)

 

 

 

 

大清水から2時間、沼田まで爆睡 

沼田からJRに乗り換え 

水上駅 

 

 

 

本日は、水上温泉水上館 

 

17湯を誇る温泉天国の宿 

 

 

 

 

「奥利根八湯」の露天風呂に、心行くまでどっぷり浸る 

 

 

 

 

 

 こんな露天風呂が8つ、内湯が9つ、忙しい

 

泉質は カルシウム・ナトリウム一硫酸塩・塩化物温泉

 

 

 

 

この豪華さ、まだまだ出てくる料理にギブアップ 

 

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   ☆水上温泉→谷川岳

 

 

 

 

谷川岳土合ロープウェー駅 746m 

天神平 1319m 

土合駅からロック・クライミングの「一の倉」方面への道 

 

 

 

 

土合口駅 

22名乗りのロープウェイ 

2400mの長さ 標高差573m 

 

 

 

天神平からリフトで天神峠 1484mへ 

ニッコウキスゲも多数 

谷川岳登山口 3km 標高差493m 

 

 

 

天神峠から見る天神平 冬はスキー場 

谷川岳に向かう登山者 

シモツケソウ 

 

 

 

 

天神峠から見る双耳峰の谷川岳。  左がトマノ耳1963m、右はオキノ耳 1977m

 

 

 

 

谷川岳連峰案内板 

天神峠の神社鳥居 

この下のトンネルを上越新幹線が走る 

 

 

 

谷川岳は次回に回し、元来たところを戻る 

 

新幹線で早速打ち上げ 

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     ☆東京→札幌

 

 

 

 

 

上野で下車、居酒屋直行。 アメヤ横町の入口には「ジェジェジェ」あまちゃん大看板 

 

     
オラー、アメ横が大好きだ!! オジさんも大好きだ!    上野には怖そうなお姉さんもいる? 

 

     
羽田空港の売店 「千疋屋」で買わないが値段を聞く   ブドウ一房が何と、6,300円。居酒屋2回分!誰が買うのやら・・・ 

 

 雑感・・・

 およそ10年振りの尾瀬であった。

 尾瀬を取り巻く100名山、至仏岳・平ケ岳・会津駒ケ岳・燧ヶ岳他を登る度に尾瀬の風を感じていた。10年もたつと随分変化した。山ガールが現れた。どこの山岳会も若者を取り込むのに躍起になっていたが、まさか服装一つで解決するとは誰一人考えられなかった。
 尾瀬は日本アルプスや富士山の山小屋と比べると雲泥の差があり、山小屋と言うより、ホテルか旅館と錯覚するほど小奇麗で設備や食事も良い。値段も他と変わらない。

 さぞ経営が大変だろうと同情した。これほど素晴らしい高層湿原は日本の財産である。世界100カ国を旅して、こんなに素晴らしい緑と山は、日本を置いて他に類を見ない。

 自然保護の重要性を痛切に考えさせられた尾瀬であった。   
                                                       終わり

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