パラグアイ紀行
パラグアイは大豆生産が主産業、世界でも第4位の輸出国である。これは戦前戦後、日本人移住者の苦労の成果である |
旅の初めに・・・ 2015年3月、南アメリカのパラグアイ他、3カ国巡りの計画をする。日本とほぼ同様の国土の広さを持つパラグアイ。農業国である。 東日本大震災で、大豆100万丁を支援プレゼントしてくれたパラグアイ、日本人移住者の祖国を思いやる気持ちが痛いほど胸にしみている。 そんな大豆畑をバスで走りながら、感謝の気持ちをあらわすのも、ささやかな恩返しかも知れない。 |
ブラジル、アルゼンチン、ボリビアに囲まれた内陸国 | 観光名所の代表はトリニダ―遺跡 |
ワンポイント情報 ・国名 パラグアイ共和国 ・民族 混血(白人と先住民)95%、先住民2% |
☆パラグアイとは・・・
東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。 20世紀前半には背後にイギリス資本を抱えたアルゼンチンの、20世紀後半からは背後にアメリカ資本を抱えたブラジルの影響を強く受けてきた。いわゆる大国に翻弄されてきた。 三国同盟戦争で負け、人口が半数に減り、移民でしのいでいる。 移民としてはドイツ人、イタリア人、スペイン人、日本人、中国人、アラブ人などがいるが、日系パラグアイ人7,000人の貢献が高く評価されて伝統的に友好関係が続き、日本は非常に高い評価を受けている。 東部は国土の40%、人口の97%近くを有し、丘陵と平原が交錯する地形で、森林と肥沃な大地からなる。 パラグアイは経済的に不平等で貧しい国家であり、約4割の国民が貧困に喘いでいると見積もられている。隣国のブラジルやアルゼンチンへ出稼ぎに行く人も少なくない。 |
☆ヴェノス・アイレス (アルゼンチン)
国力が弱いので航空機はアルゼンチンに頼る。アルゼンチン経由 | ヴェノスアイレスの街並み |
☆ポサーダス(アルゼンチン)
アルゼンチンのパラナ川の東岸に位置する。パラナ川をはさんで対岸にパラグアイのエンカルナシオンと接する。 家具、タバコ、食品、繊維などの工業と地域の中心としての商業がこの町の主産業である。 1867年、三国同盟戦争中にブラジル軍はここに軍事基地をおいた。戦後、パラグアイがこの地域の領有権を放棄した。 対岸のパラグアイのエンカルナシオンとはサン・ロケ・ゴンサーレス・デ・サンタクルス橋で結ばれている。 |
バラナ川 | サンタクルス橋でアルゼンチンと結ばれる | ポサーダスの街 |
☆ランチ・タイム
カサ・ティア | 人気レストラン | 魚料理 |
☆エンカルシオン(パラグアイ)
世界遺産イエスズ会のヘススとトリニダー遺跡や、日系移住地への玄関口となる町で、パラグアイ東南部イタプア県の県庁所在地。
アルゼンチンとの国境、パラナ川沿いに広がり、対岸のアルゼンチンのポサダスと橋でつながっている。国境付近には、多くの商店が立ち並んでいる。 |
国境を走る鉄路 | アルゼンチンからパラグアイへ繋がる | アルゼンチンが設備 |
至る所に咲く花 | 薄紫が楚々として |
☆ トリニダ―遺跡(世界遺産)
『トリニダー遺跡』とは・・・ イエズス会はそれまで森林で遊牧生活を行なってきたグアラニー族に対し、宗教的な教えだけでなく、政治、文化、社会、教育などについても統制を行ない、また農業、畜産、工芸品の製造などを行なわせていた。 |
遺跡入口 | 世界遺産マーク | 遺跡遠景 |
18世紀のもの | ところどころしか保存されていない |
この辺がメインであろうか | 巧妙に作られている |
人の顔が精密に | 周辺の農家は牛車で移動 | 街路樹が鮮やか |
☆ランチ・タイム
本日は有名バイキング料理のレストラン、南米はこの種が人気 | 南米人はこれが大好き、牛、豚、マトン、チキン・・・ |
大串からそいでくれる | ワンピース? もっと食え、とハッパがかかる |
サラダ、デザートコーナー | 可愛い女の子がエールを送ってくれた |
☆国道沿いの景観
国道の沿線には、果物売りが多い |
☆パラグアイと大豆
■ 世界の大豆(輸出量)
(出典) USDA「World Markets and Trade」 |
国土を埋める大豆畑 | ところどころに大豆の収納所が大規模にある |
収穫間際の大豆 | 収穫、枝豆が美味しい | 枯れさせて | 出来あがり、さあ~豆腐だ |
日本の東日本大震災で、パラグアイ移住者を中心として、支援の大豆で豆腐100万丁プレゼント作戦が行われた。 第一次移住者は1936年。日本の世界大戦参戦で、パラグアイでも敗戦国日本人として大変辛い思いをしてきたと思われる。 移住後79年、既に2世、3世の時代だが、祖国日本を思いやる気持ちは忘れない。 有難い事である。豆腐を食べる度に平和をかみしめたいものだ。 |
||
祖国日本を思って作られた支援要請のポスター | 続々と日本へ送られた100万丁の豆腐 | 世界で活躍する日本人に今一度エールを送りたい。 |
☆アスンシオン(首都)
人口は51万人、市の中心付近には高層建築が見られるがそれ以外には10階以上の建築物は少ない。 5年連続で世界一物価の安い都市となっている。当初は砦であり、1541年に先住民の攻撃のため放棄されたブエノスアイレスからの避難者を迎え、市としての体裁が整えられた。 市は南米の都市の中でも歴史の古い部類に属し、スペイン人やクリオーリョたちに大陸中南部の征服と植民地建設の足掛かりを提供した。 三国同盟戦争(1865年-1870年)中の1869年、市はブラジルの軍隊に占領された。 戦後、ロペス政権によって国外に追放されたりヨーロッパに留学したりしていた人々が帰国し、ブラジルの傀儡政権を立てた。国の成人男性が戦死・病死・無差別な殺戮によって著しく減少していたからである。ブラジル軍の占領は1876年まで続いた。 |
奇抜なビル | 都会の雑踏 |
☆夕餉
アスンシオンのホテルで夕餉 | メインはティラピア、日本のスズキ。 ワインが美味しい国である |
早朝の街、露天商が並ぶ。香辛料をカメでつぶしている | 野生の香辛料がズラリ、トッピングしてそれをカメに入れてつぶし、パンに挟んで朝食 |
☆霊廟
英雄広場にある、英雄達の霊廟はアスシオンのシンボルで国のために戦った英霊が奉られている。 霊廟の入り口には衛兵が立っている。 初代から3代までの大統領が眠っていて一番有名な大統領はカルロス・アントニオ・ロペス。 |
親しまれている霊廟 | マリアさま、かな? |
衛兵が守る | 正面 |
歴代の指導者 | 独立宣言書を握る |
広場の土産屋さん | 原住民? | 独裁政治と責任者を民主主義という四角い岩でつぶしているモニュメント |
☆大統領官邸
港の近く、パラグアイ川沿いに建つ2階建ての白亜の宮殿。 フランス留学経験のある大統領、フランシスコ・ソラノ・ロペスが、パリのルーブル美術館を模して建てたといわれている。 庭には花時計があり、7~8月には花壇の花が特に美しい。建物の内部は見学できない。入口にはためいている赤、白、青のパラグアイ国旗が印象的だ。 |
大統領官邸 | 大統領官邸の屋上に翻るパラグアイ国旗 |
☆国会議事堂
モダンな国会議事堂 | 国会議事堂は友好国台湾のプレゼント | 国会議事堂の前にいかにも嫌がらせ、生活困窮者のテント、しかし国はおおらか。 |
街を警備する女性のお巡りさん |
☆英雄広場
アスシオンの英雄広場は戦いで亡くなった英雄たちの霊廟が建っている。 |
☆カテドラル
カトリックの教会 | カテドラルのマーク |
ミサが行われていた | 説教をしている |
☆日本食レストラン
有名レストランへ | 鮮やかな屏風 | テーブルクロスには桜の花 |
チリから取り寄せたサーモンが新鮮 | 野菜の炒め物、味付けが抜群 肉じゃがまで |
淡白な焼き魚 | 天ぷら | デザートはスイカ |
店名がヒロシマ、今は2世の娘さんが切り盛り、美味しい店でした | お客さんで、ここを愛用すると云う沖縄から移住の2世家族 |
☆ 日本国との関係と、日本人移住地
軍事独裁政権の下で人口を補うために移民が導入され、スイス、ドイツ、イタリアなどから農業移民がやってきたが、その数は周辺国と比べると遥かに少なかった。
1937年、パラグアイに日系人が初めて入植して以来、日系パラグアイ人の貢献が高く評価されて伝統的に友好関係が続き、日本は非常に高い評価を受けている。日本人・日系人約7000人が住んでおり、2007年には移住70周年記念祭典が催された。 1959年に締結された移住協定は1989年に効力無期限延長改定され、8万5000人の日本人移住者が受け入れ可能となっている。なお、1976年以来、2004年を除き、日本が最大の援助国である。 とりわけ日本人移住者が導入し急成長した大豆の生産量は世界第6位、その輸出量は世界第4位。 2011年3月11日の東日本大震災後に日本人移民農家を中心に「100万丁豆腐プロジェクト」として100万丁分の原料の大豆、製造加工費を日本へ支援した。 |
☆ラ コルメナ移住地
ラ コルメナ移住地は、パラグアイで最初の日系移住地である。移住地の南西にある小高い山セロ・アプラグア(標高約300m程度)は、どことなく富士山を感じさせる姿から「コルメナ富士」として日本人移住者たちの望郷のよすがとなった。 1936年8月に日本から最初の移民団が訪れて開拓が始まるが、準備期間が短かったこともあり、移民当初の移住者たちは食べる野菜もない中での家作りや重労働を強いられ、苦難の連続であった。 1965年にアスンシオン市場に通じる道路(ラ・コルメナ~アカアイ間)が整備され、トマトやメロンなどの蔬菜類の出荷が急増。現在では、アスンシオンの近郊蔬菜栽培産地としての地位を確立し、「果物の都」とも言われている。 なお、「ラ・コルメナ」という移住地の名称は、勤勉な日本人にふさわしく、「ミツバチの巣箱」という意味で名づけられた。1978年には自治区から市に昇格。日系人の人口は100戸、350人となっている(2009年現在)。 移住地では、11~12月に特産のぶどう狩りが体験できる。 |
☆ラパス移住地
1971年、パラグアイ発の日本海外移住振興株式会社(JICAの前身)の直轄移住地として設立された。 ラパスという名称は、初代のラパス地区の組合長であった森大光氏により「平和で豊かな移住地に」 という祈りを込めて、「ラパス」(平和)と命名されたものである。 移住地では、10月下旬~11月までヒマワリ畑が広がり、1月~4月上旬はマカデミアンナッツ狩が楽しめる。 |
☆ピラポ移住地
2010年8月2日に移住50周年を向かえたピラポ移住地。戦後のパラグアイの移住地としてはチャぺス、ラパスに引き続いて、3番目の移住地です。 1960年8月2日に日本からの第一陣移住者(26家族)が入植。1965年に第28次を迎えるまでに331家族、1777人が日本より入植したが、移住地内の景気変動や開拓生活の困窮、結婚分家などによる都市部や他の移住地への転住もあり、現在の日本人会会員数239家族、1249人が在住している(2008年5月現在)。 。「ピラポ」とは、グアラニー語で「ピラ」は魚、「ポ」は手を表し、「魚が手掴み出来るほど多い」の意味とも言われている。 移住当初に取り組んだ農作物の価格低迷、大豆の価格急騰と下落、小麦栽培への転換を経て、現在では大規模な設備投資を行い、ピラポ移住地の農業経済を支えている。 |
☆イグアス移住地
日本海外移住振興株式会社(JICAの前身)の直轄移住地として設立され、1961年8月22日、フラム移住地及びチャべス移住地からの分家移住希望者14家族が第一次団として入植した。 1960年代になると日本は高度成長期に入り、経済的理由による移住者が激減。1972年までの入植者は238家族に留まり、現在の日系移住者世帯数は、220世帯(2010年3月現在)となっている。 トマトやメロンの一大産地となったものの、市場の競争激化、大豆価格の低迷と低収量などの不振が続き、負債が膨大化。しかし、1983年に不耕起栽培の導入が成功し、不耕起栽培先進地として全国にその名を馳せるようになった。 |
☆パラグアイ移住、苦難の歴史
☆略史
先コロンブス期 先住民が住んでいたが、インカ帝国の権威はこの地までは及ばなかった。 1537年 スペイン領となる。 1811年 スペインから独立 1864年~1870年 三国戦争(対ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ連合軍)に負ける。パラグアイは ブラジルとアルゼンチンに国土の4分の1を割譲し開戦前の52万人の人口は21 万人にまで減少した。これ以後50年に渡り国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は 残っている。 1932年~1935年 石油埋蔵の利権を巡り、チャコ戦争(対ボリビア)に勝利。 1954年 クーデターにより、以後35年間にわたり独裁政権継続。 1993年 文民政権 |
旅を終えて・・・ パラグアイの国土をバスで走る中、大豆畑が延々と広がっていた。殆どが機械化で進められているのだろう。人影があまり見かけられなかった。 移住して苦労の末に、確固とした移住日本人の信頼を得た先人を思う時、頭が下がる思いで車窓からの大豆畑を眺めていた。 ここにも日本人の真面目さと研究熱心な姿を発見し、旅の意義を感じた。 終わり |