ルワンダ紀行

 

映画「ホテル・ルワンダ」の舞台ホテル・ミルコリンズは今は平和

 旅の初めに・・・

 2014年9月、 アフリカの中央部に位置するルワンダを旅することにした。

 ルワンダと言えば今から30数年前、ルワンダ紛争で世界に衝撃が走ったことで知られる。まさに負の遺産と言えよう。内戦と言うより、民族同士の大虐殺で120万人以上の尊い命が失われている。

 今は既に平和。復興し「アフリカの奇跡」とまで言われているらしい。ならば復興はどのように行われたのか。そこも注目したい。

 虐殺に至る原因、問題点、そして復興に対する対策など興味は尽きない。
 
 映画「ホテル・ルワンダ」を再度見て、その舞台ホテル・ミルコリンズを訪れるのも目的の一つである。久し振りに心は逸る。

 

 

                ☆ アフリカは広く、また国が多い

      中央部に位置し、ビクトリア湖に隣接 今回はウガンダから訪れる。首都キガリ

 ワンポイント情報

 ・国名    ルワンダ共和国       ・民族構成   国民の84%フツ、15%がツチ、1%がトゥワである。
 ・面積    四国の1.4倍          ・宗教      カトリック57%、プロテスタント26%
 ・人口    1,000万人            ・言語      キニアルワンダ語、英語、仏語
 ・首都    キガリ(人口33万人)    ・産業      コーヒー、茶
 ・宗主国   ベルギー           ・特徴      フツ族(84%)とツチ族(15%)の争い

        ☆首都キガリ 

 キガリは、ルワンダ共和国首都。ルワンダのほぼ中央に所在し標高1433mから1645mと高地に位置し、人口は約330,000人(1997年)。

 ドイツ植民地時代1907年に開かれ、以後ベルギー領時代を通してルワンダの中心都市であった。

 1962年にルワンダが独立した際に、首都に指定される。キガリ市は、ルワンダ全体がそうであるように、いくつかの丘から構成されていて、中心はキヨブ地区、カキィル地区の丘の上部地域となる。

 旧都心のキヨブ地区には大統領官邸や多くの商店が集まり、新都心であるカキィル地区には国会議事堂、いくつかの中央省庁や大使館が位置し、その他の地区や丘の下部は概ね住宅街となっている。

                

  ☆ホテル到着
        

     ルワンダでは大きなホテル       ホテル「シェ・ランド」           コテージ風


    ☆キガリ公設市場

         朝の9時からこの込みよう      野菜、果物、魚、肉、日用品、何でも揃う
               色とりどりの豆           ウサギの肉まである



   ☆街並み 

      公認のバイク・タクシー  今、街には近代的建物が着々と建つ           こちらもビル

   ☆美人

      市場で見かけた美人        ポーズをとる美人           髪の毛が特徴

   
  ☆映画「ホテル・ルワンダ」の舞台ホテル・ミルコリンズ

   ホテル・ミルコリンズの入口門     現在はルワンダの代表的ホテル        映画のポスター

 

 1994年ルワンダで勃発したルワンダ紛争によりフツ族過激派が同族の穏健派やツチ族を120万人以上虐殺するという状況の中、1200名以上の難民を自分が働いていたホテルに匿ったホテルマン、ポール・ルセサバギナ実話を基にした物語である。

 フツ族の過激派はツチ族反乱軍によって排除されるまでのおよそ100日間に約80万人の人々を殺害した。映画の最後に映し出される文章によってフツ族の将軍など虐殺の指導者達が裁かれたことが示される。

    ☆映画「ホテル・ルワンダ」 ( ↓ クリック)

  

 

             入口看板    ルワンダ人の年収半分が一泊料金            豪華なロビー

 

ルワンダの街を見下ろす中庭プール。プールの底にも名前         ロビーには高そうな絵が並ぶ

             中庭から見るルワンダの街並み。丘が連なるルワンダ

              中庭、宿泊客は殆どが欧米人の様だ

                 中庭の東屋           コーヒーは宿泊者限定のよう

 

  ☆ルワンダ内戦

 イギリス連邦加盟国。旧イギリス植民地以外で加盟が認められたのは1995年のモザンビーク以来のことである。アフリカで最も人口密度が高い国である。

 第一次世界大戦終結までドイツ領東アフリカ、以後はベルギーの委任統治に置かれ、少数派のツチが中間支配層に据えられた。

 1987年、隣国ウガンダに逃れていたツチ系難民が主体となりルワンダ愛国戦線が結成され、1990年以降、ルワンダ帰還を目指したツチ族とルワンダ政府の間で内戦に陥った(ルワンダ紛争)。その結果、少数派のツチ族は約100日間のうちに、当時のルワンダの総人口約730万人中、およそ80万人から100万人が殺害されたとみられている。

 内戦時代に海外へ脱出した少数派のツチ族のうちの200万人近くが戦後帰国し、海外で習得した様々なスキルで国の復興に尽力しており、21世紀に入り顕著に近代化が進み、「アフリカの奇跡」と呼ばれている。毎年成長率が7%前後と急成長を遂げている2010年頃からはIT立国を目指し、ITの普及・整備に力を注いでいる。

 この国はアフリカ大陸の中央にあり、赤道から緯度で数度だけ南に位置する。首都以外は草地で、丘陵に小農場が分布する。ルワンダは「千の丘の国」と呼ばれる。

 労働人口の約9割が農業に従事しており、国土は緩やかな丘陵が中心で、丘陵の最上部まで段々畑が広がっている。そのため、土壌流出が問題となっている。

世界中にディアスポラ(元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団)したルワンダ人が農業、観光産業、不動産に投資し、目覚しく成長しており、この現象を指して「アフリカの奇跡」と呼ばれている。

   ☆「ツチ族(少数)対フツ族(多数)」

 フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった。

  しかし、ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布(ハム仮説)し、ツチとフツは大きく対立し始めた。1948年に188万7千人だった人口が1992年には750万人と4倍になり、土地不足や土壌の疲弊が起こり農業が主だったフツには貧困が蔓延するようになった。

 植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けた。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められた。植民地解放の気運が高まるとベルギー当局とカトリック教会は多数派のフツ側に立場を逆転させたが、現地のカトリック教会の神父修道者に犠牲者が出ており、教区全員を虐殺された教会もある。

     ルワンダは 「千の丘の国」

        ルワンダの国の殆どが丘になっており、緑が多くその景観は素晴らしい

                    首都キガリの街並み、赤い屋根と緑が素晴らしい

丘の上の住宅街、道路を挟んで高級住宅街      道路の反対側は貧民街   さらに小高い所には近代的建物が並ぶ


  ☆ショッピング・センター

        首都キガリのショッピングセンター        広く、大きく、綺麗なショッピングセンター

    紅茶売り場、ルワンダはゴリラが有名、ゴリダの絵が          ルワンダのマタ茶は有名

  

   ☆サプライズ、偶然の出会い!


   ショッピングセンターで偶然会った原田桃子さん
熱い思いで会社経営を語ってくれた。お返しにナッツをたくさん買いました。そしてHPで宣伝も約束、近い内に日本へも輸出しますと、力強く約束してくれた。 ガンバレ!原田さん。
創業者の佐藤芳之さん、アフリカでは神様のように信頼されている。

 

         日本人女性社長「原田桃子」さん奮闘中   ルワンダ・ナッツ㈱

報道ステーション2014/08/29   に紹介される。

 ルワンダ・ナッツ㈱の創業者でオーナーは佐藤芳之氏(74歳)、そして社長は若き原田桃子さん
 佐藤さんはケニアで「ケニア・ナッツ㈱」を成功させ、年少6億円、従業員は3,500人、36年間手塩にかけた会社をケニア人に譲渡した。

  そして今度はその技術をルワンダでオーナーとして、今度はルワンダ・ナッツ㈱を創業した。日本人の若い女性、原田桃子さんを社長にして現地人を雇い、ルワンダの企業として将来を期待されている。

 ケニア・ナッツ㈱社長として奮戦中の原田桃子さん。
 御主人はルワンダでバクテリアを利用した公衆衛生会社「オーガニック・ソリューションズ・ルワンダ」で働く、それぞれ期待の星である。

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 佐藤芳之さんのアフリカでの活動

 安っぽい同情や哀れみからは、真の援助は生まれない。だから、ビジネスにこだわってきた。

 北風が吹きつける昨年11月、東京・日比谷のホテル。一時帰国したケニア有数の食品会社ケニア・ナッツ・カンパニー(KNC)の社長、佐藤芳之はルワンダの駐日大使と向き合っていた。まだ大量虐殺の傷跡が残るルワンダで、佐藤は2008年からバクテリアを利用した公衆衛生事業を立ち上げている。

 将来、現地の人たちの手で事業を続けられるよう、ルワンダ政府にも協力してほしい。愛飲するドライマティーニを片手に佐藤は大使にゆっくりと切り出した。 「アフリカの自活に必要なのは仕事をつくることです」

 小さいころに読んだ野口英世の伝記が縁の始まりだった。野口は佐藤が当時住んでいた宮城県の隣、福島県の出身。身近に感じた。黄熱病の研究中に自ら感染した野口が倒れたのが、ガーナだった。遠い国に思いをはせた。

 都立小石川高校時代には「アフリカで働こう」と気持ちを固めた。1963年に日本の大学を卒業後、念願のガーナ大学に留学した。
 今も忘れられない光景がある。
 
 「アフリカ全土が手を取り合い、ユナイト(団結)しよう。そうすれば、世界を相手に我々も力を発揮できる」「汎アフリカ主義」を考えようと首都アクラで開催された国際会議。あこがれていたガーナ初代大統領クワメ・エンクルマの演説に、全身が震えた。1世紀に及ぶ暗黒の植民地支配から目覚めようとしている若い力。「ユナイト」という言葉に可能性を感じた。

 「自分も何かしたい」。考え続けて導き出したのが「ビジネスでの貢献」だった。一時帰国後、今度はケニアに渡って日系企業に就職。経験を積んだ後、鉛筆製造と建材を扱う会社を起業した。

 1973年、たまたま訪れたナイロビの農業試験場で、場長の机にあった木の実が目にとまった。深緑色の硬い殻で、大きさは栗一粒ほど。乳白色の実をかむと、口全体に甘みが広がった。それが、マカダミアナッツだった。「うまい。絶対に商売になる」。政府や明治製菓の協力をとりつけ74年、ケニア人社員7人と現在のKNCを立ち上げた。

 マカダミアナッツはオーストラリアが原産。植民地時代に英国人が持ち込んだ外来種だ。あちこちの農場に木々が残ってはいたが、多くは荒れていた。だが、当初は自分で農場を構えることはせず、農家をトラックで回っては彼らのナッツを買い取った。専門家から助言を得て品種改良した苗木も販売した「タダで渡して押しつければ、植民地時代と一緒」。どんなに少なくても、カネを取ることにこだわった。

 搬入したナッツの殻を割り、乾燥させて実を選別する。地道な努力と従業員の意欲で、90年代にはマカダミアナッツ生産量で世界トップ3の一角を占めるまでになった

 時に、成功者は守勢に回りがちだ。仕事が軌道に乗れば利益を優先したくなる。佐藤も同じ轍(てつ))を踏む。

 伸び続ける需要に応えるため、ブラジルへ進出したのだ。巨額の資金に任せてブラジル人のナッツ農場や加工工場をすべて買収した。「北米市場を一気に押さえたい」という欲と焦りからだ。だが、これから操業という時、武装勢力に工場を占拠された。後にゲリラと地元住民が結託した行動だと知った。

 失意の中、かつて見た映画が脳裏をよぎった。黒澤明監督の「七人の侍」。戦国時代、野武士の襲撃におびえる農村で雇われ浪人たちは村人と一緒に戦い、村を守り抜く。だが、ひとたび解決すれば静かに村から立ち去る。「格好いい生き方をしたい」と思わせた映画だった。

 翻って自分を見つめた。ブラジルに居を構えるわけでもない。一緒に農園で汗を流すこともない。ただ、利益だけを吸い上げようとしていた。「最も嫌っていたはずの植民地主義と同じじゃないか」。ブラジルでの地元の反発に納得がいった。

 考えるべきは、従業員たちの「自活」だ。ケニアに戻ると、組合と協議して労働規約を定めた。交渉はすべてケニア人の管理職に任せた。毎月25日の給与支払いを約束すると、従業員の遅刻や無断欠勤が驚くほど減った。

 コーヒーや紅茶にも手を広げた今、関連会社を含めたKNCの年商は約4000万ドル(約36億円)、従業員は3500人を超える。企業年金や健康保険、住宅や車のローン制度……日本企業と遜色(そん・しょく)ない福利厚生もそろう。利益の大部分は、従業員への還元と設備投資に消える。

 「収入が増え、生活が安定すれば、いろいろなチャンスが生まれる」。佐藤の経営に宿るのは、アフリカの人々を「安い労働力」としてではなく、この地に生きる一人ひとりの人間と見る哲学だ。

 昨年、1株を残して所有するKNCの株式を幹部社員らにすべて譲渡した。社長にはとどまったが、経営もケニア人に委ねた。36年間、手塩にかけた会社だが、未練はなかった。

 「ここに来たのは、彼らが会社を経営できるよう、手助けするためだ。もう十分にやっていける」。反対する妻の武子(66)を、こう諭した。

 取材中、佐藤は何度も左目に点眼をした。小学3年の時、野球のボールが当たって失明したのだという。

 「右目(の視力)は1.5あるから、障害者手帳はもらえませんでした」と笑い飛ばす。

 高校ではラグビーに打ち込み、英文学の原書を読みあさった。母ちゑ子(93)は「目のことで弱音を吐いたことは一度もない。ほかの子より大変なことは多かったと思うけど」と振り返る。

 失明の経験が、アフリカへの接し方に影響したのではないか。記者が尋ねると、しばらく考えて佐藤はこう答えた。

 「独立後50年近くたつが、国際社会は今もアフリカを貧しくてかわいそうな子どもとして扱い続けている。それが逆に成長を阻害している」

不自由があっても、自分の足で歩け。そのための手助けなら惜しまない――。

 「立志、開拓、創作」

 撮影で小石川高校を訪れた佐藤は、懐かしそうに校訓が刻まれたプレートに目をやった。「そう、ここが原点です。これを見てその気になったんだ」

 昨春、全校生徒を前に講演した。校訓を地でいく佐藤は、孫ほど年の離れた生徒たちにとってまぶしい存在だ。「あの時の人ですよね」。佐藤に気づいた生徒が、窓から身を乗り出してきた。

 卒業から半世紀が過ぎ、母校の校舎に当時の面影はない。佐藤も年齢を重ねた。だが、褐色の大地に懸ける情熱は、あの時から変わらないままだ。

 人生の半分以上を現地で過ごしてきた佐藤をして、アフリカは「したたかさの網が張り巡らされている」と言わしめる。

 従業員になりすまし給与を詐取するニセ社員、横領した会社の資産で起業した元幹部……。だまされた経験は数知れず。「忍耐力」なくしては、ビジネスを続けること自体が困難だった。

 次いであげたのは「体力」。「トータルな人間力は、健康でなければ発揮できない」。今も休日には2時間近くウオーキングで汗を流す。

 取材中、佐藤は「言葉は風」と繰り返した。アフリカでは「昨日の言葉(約束)は、もうキリマンジャロの山すそに飛んでいった」とほごにされたことも。「世界でもこんなに言葉に縛られるのは日本だけ。大風呂敷を広げないと、達成できないこともある」と言うあたりが「運」を3位にあげた理由か。

 堅実家の一面も持ち合わせ、中学時代から10年ごとの目標を設定している。30代は「起業」、40代は「事業の発展」。70代について尋ねると「新しい仕事への10年」と目を輝かせた。
 

 佐藤芳之さんのプロフィール

1939年生まれ。
宮城県志津川町(現南三陸町)で幼少期を過ごす。63年、東京外国語大学インド・パキスタン語学科卒業、同年ガーナ大学に留学。66年から5年間、ケニアで日系繊維企業に勤務。74年、ケニア・ナッツ・カンパニーを起業。08年、ルワンダでバクテリアを利用した公衆衛生会社「オーガニック・ソリューションズ・ルワンダ」と「ルワンダ・ナッツ㈱」を設立。

 

   古賀茂明のケニア・ルワンダ現地ルポ 「これがアメリカにも中国にも負けない『日本のアフリカビジネス』だ!」  

                    http://netallica.yahoo.co.jp/news/20140921-00035924-playboy

 

                       報道ステーション中継
  
          http://www.dailymotion.com/video/x24u348_housute-africakaihatsunipponnosoftpower_news

 

 課題!

 発展途上国に対するODAやJICAの今後の役割は、欧米や中国にもマネが出来ない、日本のソフトパワー、いわゆる途上国の国民中心への援助が必要である。
 今までの国家への援助では、賄賂や汚職で国民にいきわたらないからである。

   

   ☆ランチ・タイム

           本日はルワンダで中華料理         焼きそばらしいが、焼きうどんみたい

 

   麻婆豆腐なんだが、すき焼きみたい    中華じゃなく、イタリア料理?  左は肉なし野菜炒め?右は半生カタクリ?

    ☆アフリカの奇跡

内戦時代に海外へ脱出した少数派のツチ族が、海外で習得した様々なスキルを生かし、2010年頃からはIT立国と不動産開発を目指し、街は著しく発展している。

 

アフリカの奇跡を起こした原動力!汚職の少ない政治「クリーンガバメント」が影でプロジェクトをバックアップ。

「奇跡の国」ルワンダは急激な発展を遂げ、その一番の原動力となっているのがルワンダ大統領ポール・カガメ氏の政策とリーダーシップと言えそうだ。ツチ系の、今では国のリーダである。
 
 今、ルワンダが「アフリカ一平和な国」と謳われるいくつかの理由の一つとして、”汚職が少ない”ということが挙げられ、国際透明度指数でも、アフリカで腐敗していない国の一つとして位置づけられている。

 「汚職を無くす」というのはカガメ大統領就任時から焦点を置いている政策で、この「クリーンガバメント」は、ルワンダの経済発展にも大きく関わってきたようだ。

 注目すべきは、ルワンダは、国会における女性の進出率が世界一でもあり、全国会議員の半分弱は女性となっている。

 ちなみに、犯罪率だけみると首都キガリより東京の方が高く、その治安の良さも政治的に安定した国を表している。

 

  動画・・・NHKスペシャル アフリカン・ドリーム~”悲劇の国”が奇跡を起こす

         (2010年NHKが放映したスペシャル:49分間)

 

     キガリ虐殺記念館  

 当初の展示物である虐殺の遺骨も数点あるが、現在は文献や写真、映像・音声資料を通じてルワンダの歴史を説明するという教育的な側面が強くなっている。
              入口門               記念館

    

       GENOCIDEの文字が重い              建物             受付

 

                 25万人が眠る墓                判明した人の名前

        被害者の写真が無数         虐殺の実態  無数に積み上げられた骨は余りにもむごい

     ☆衝撃の体験

 アフリカ中部に位置する小国ルワンダ。1994年に起きたフツ族とツチ族による民族対立の悲劇。

 当時の人口800万人のうち80万人~100万人ほどが殺されたという。そのジェノサイド(大量虐殺)の生き地獄を生き延びた女性イマキュレー・イリバギザ(当時24歳)さんが体験を綴った手記、『生かされて』を紹介。


 穏健派フツ族の牧師の家にかくまわれたイマキュレーさんたち8人(7歳~55歳)は、身動きも取れないような1畳ほどの狭いトイレの中で3ヶ月間を過ごした。

 トイレの前にタンスを置いてドアを隠すが、フツ族の殺人者たちがナイフや槍や大鉈を持って喚き散らしながら家の中を探しに何度もやってくる。
 その度に生きた心地もなく息を殺して身を潜める女たち。その1分1秒毎の恐怖といったら、想像を絶するものだったであろう。

 
 両親や兄たちを殺された著者のイマキュレー・イリバギザさんは、「憎しみでいっぱいになった心で、殺人者たちを許すために祈りを捧げることの難しさ」に煩悶しながらも、「どうしたら憎しみを手放すことができるのかを知る必要がある」と、さらに神に祈りを捧げていく。
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 イマキュレー・イリバギザさんは、ルワンダに生まれる。国立大学で電気工学を学ぶ。1994年の大虐殺で両親と兄、弟を失う。1998年、 アメリカに移住し、ニューヨークの国連で働き始める。
 彼女は、虐殺や戦争の後遺症に苦しむ人たちを癒すことを目的とした「イ リバギザ基金」を設置しようとしている。現在、夫のブライアン・ブラックと2人の子どもたち(ニケイシャとブライアン・ジ ュニア)と共にニューヨーク州に住む。 

     ☆その時、国立ラジオは・・・ 

 国立ラジオで、政府の大臣がフツ族に訴えかける。

 「ルワンダのすべてのフツ族市民に告ぐ。今こそ共通の敵に立ち向かう時だ。我々は自分たちを守らなければならない。ツチの蛇どもは我々を殺そうとたくらんでいる。最初に我々が彼らを殺すのだ。見つけ次第殺せ。一人たりとも生かしておくな。老人も赤ん坊もだ。彼らはみな蛇どもだ。ゴキブリどもだ。奴らを皆殺しにするんだ!」

 こうして、今まで隣人であり、学校の友であり、友人であったツチ族の人々を、手当たり次第に殺戮していく。
 まさにこの世の地獄が目の前に繰り広げられていく。

 カトリック教徒、プロテスタント教徒合わせて80%を超えるルワンダ。
教会に逃げ込んだ人たちまで、大鉈やナイフで切り刻んでいく。

 フツ族の牧師が叫ぶ。

 「私がこの殺戮を祝福しよう。この国にゴキブリどもを一人も残さないことを祝福しよ う」と言って、殺人者たちをけしかける。

 宗教をも無力としてしまう、民族同士の激しい憎しみ。

 

    ☆一路、郊外へ

             アフリカらしい絵画         ルワンダや周辺国の殆どが日本車

       バイクが今や主流           こちらも丘      向こうも丘が連なる

                サトウキビ畑          ルワンダの中心的産業は農業

           囚人護送はトラックの荷台  囚人服は二色、監視の元労働が科せられる。中には虐殺の当事者も

                  街行く人                    今は穏やか

        稲作も行われている。標高1600m                バナナの木も多い

 

                 農作業は未だに鍬が主流、機械化が待たれる。 囚人が作業

   
 
     ☆
ブタレ (国境の街)

ブタレは、ルワンダの南部に位置する都市である。ブルンジとの国境の街。人口9万人。

ブタレはルワンダの学術都市として発展してきた。

         次の訪問国ブルンジへ

 

    世界の主な民族紛争

 ・ルワンダの民族内虐殺     犠牲者   100万人   民族間対立(ベルギー等先進国の策略による)

 ・北アイルランド紛争       アイルランド人イギリス人の対立。犠牲者数3,500人

 ・アフガニスタン紛争        民族の対立と、イスラム教シーア派スンナ派の対立。アメリカ人2,300人

 ・カシミール紛争          インド・中国・パキスタンの三国が領有権を主張しあうことによる対立。数千人

 ・チェチェン紛争          ロシアからの独立とイスラム原理主義国家の武装勢力との紛争。20万人以上

 ・ユーゴスラビア紛争       連邦からの独立に伴う紛争と連邦分解後の多数派住民と少数派住民の対立。10万人

 ・中東戦争              ユダヤ人イスラエルと、アラブ人パレスチナエルサレムをめぐって対立。1,500人

    大量虐殺を行った歴史上の支配者【ランキング】

 1.毛沢東        (中国)    犠牲者  7,800万人   文化大革命、大躍進政策で自国民を殺した。

 2.ヨシフ・スターリン (ソ連)           2,300万人   国家の工業化のためシベリア流刑。

 3.アドルフ・ヒトラー (ドイツ)          1,700万人   「劣等民族」または「不穏分子」としてユダヤ人の大量殺人。

 4.レオポルド2世   (ベルギー)        1,500万人   個人植民地コンゴで、強制労働の不平分子を虐殺。

 5.エンヴェル・パシャ (トルコ)           250万人   オスマン帝国の指導者による、アルメニア人の虐殺。

 6.ポル・ポト      (カンボジア)        170万人   資本主義的行為として国民を粛清。300万人とも。

 7.金日成        (北朝鮮)          160万人   朝鮮戦争で、侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清。

 8.李承晩        (韓国)            120万人   政治犯や民間人など大量虐殺。

 9.メンギスツ大統領 (エチオピア)        150万人   独裁政治に反対する人々を虐殺。

10.ヤクブ・ゴウォン  (ナイジェリア)        110万人   権力者ヤクブ・ゴウォンによるイボ族の虐殺。

    ☆世界10の戦争 (犠牲者数ワースト順)

 1.第二次世界大戦        6,000万人     ドイツ日本イタリア等と連合国陣営との戦争

 2.モンゴル帝国の侵略      5,000万人     チンギス・カンのアジア、ヨーロッパ征服

 3.安史の乱             3,300万人     唐王朝内の反乱

 4.太平天国の乱          3,000万人     清王朝内の反乱

 5.明王朝の滅亡          2,500万人     王朝の戦い

 6.日中戦争             2,000万人     日本と中華民国の戦争

 7.第一次世界大戦        1,700万人     連合国(日本含む)と中央同盟国(ドイツ、オスマントルコ等)
                                                                との戦争

 8.ティムールの征服戦争     1,500万人     モンゴル帝国末裔、ティムールの征服戦争

 9.ロシア内戦            900万人     旧ロシア帝国内戦

10.ヤクブ・ベクの乱          800万人     清王朝の拡大戦争

         ブタレ (国境の街)

ブタレは、ルワンダの南部に位置する都市である。ブルンジとの国境の街。人口9万人。

ブタレはルワンダの学術都市として発展してきた。

               ☆略史

年月略史
17世紀 ルワンダ王国建国
1889年 ドイツ保護領
(第一次大戦後はベルギーの信託統治領)
1961年 王政に関する国民投票(共和制樹立を承認)
議会がカイバンダを大統領に選出
1962年 ベルギーより独立
1973年 クーデター(ハビヤリマナ少将が大統領就任)
1990年10月 ルワンダ愛国戦線(RPF)による北部侵攻
1993年8月 アルーシャ和平合意
1994年4月 ハビヤリマナ大統領暗殺事件発生をきっかけに
「ルワンダ大虐殺」発生(〜1994年6月)
1994年7月 ルワンダ愛国戦線(RPF)が全土を完全制圧,
新政権樹立
(ビジムング大統領,カガメ副大統領就任)
2000年3月 ビジムング大統領辞任
2000年4月 カガメ副大統領が大統領に就任
2003年8月 複数候補者による初の大統領選挙でカガメ大統領当選
2003年9-10月 上院・下院議員選挙(与党RPFの勝利)
2008年9月 下院議員選挙(与党RPFの勝利)
2010年8月 カガメ大統領再選

     ☆アフリカ8カ国一覧

国名

面積

人口

首都(人口)

民族

言語

宗主国

宗教

産業

識字率

平均寿命

ウガンダ

本州と同じ

3,300万人

カンパラ
(人口142万人)

原住民族

英語、スワヒリ語、ルガンダ語

イギリス

キリスト教60%、伝統宗教30%、イスラム教10%

鮮魚、コーヒー、紅茶、綿花、タバコ

67%

58.6才

ルワンダ

四国の1.4倍

1,000万人

キガリ
(人口33万人)

国民の84%フツ、15%がツチ

キニアルワンダ語、英語、仏語

ベルギー

カトリック57%、プロテスタント26%

コーヒー、茶

65.3%

63.5才

ブルンジ

四国の1.5倍

850万人

ブジュンブラ
(人口23万人)

フツ族90%、ツチ族10%

仏語、キルンジ語

ベルギー 

カトリック65%、プロテスタント10%、伝統宗教23%

農業(コーヒー、茶) 

65.9%

53.6才

マラウィ

北海道+九州

1,526万人

リロングウェ
(人口65万人)

バンツー系

チェワ語、英語

イギリス

キリスト教75%

タバコ、紅茶、砂糖、綿花、コーヒー

72.8%

47.0才

モザンピーク

日本の約2倍

2,289万人

マプト
(人口188万人)

マクア・ロムウェ族など43部族

ポルトガル語

ポルトガル

キリスト教(41%)、イスラム(17.8%)、原始宗教

農業、漁業

54.0%

49.8才

スワジランド

四国と同じ

117万人 

ムババネ
(95万人)

スワジ族、ズールー族、トンガ族

 英語、シスワティ語

イギリス

原始宗教、キリスト教

濃縮清涼飲料、砂糖、パルプ、柑橘類 

85.6%

42.0才

レソト

九州の1/7

200万人

マセル
(人口18万人)

バソト族

英語、ソト語

イギリス

キリスト教

農業、牧畜

女性90.3%。
男性71.3%

48.8才

南アフリカ

日本の3.2倍

5,119万人

プレトリア
(人口52万人)

黒人、白人、カラード、アジア系

英語、アフリカーンス語、計11が公用語

イギリス

キリスト教、イスラム教

金は世界の産出量の半分を占める

89.0%

56.1才

 

                      アフリカはかって殆どがヨーロッパの植民地 

1912年の植民地

 旅を終えて・・・

 国民の電化製品所有率は、たったの5%と聞いて驚いた。

 隣国のウガンダやブルンジも貧しいが、ルワンダのこの地へ入ってまず気がついたのは、国内が整然として一目見ただけで国が安定し、清潔観があり、文化が進んでいるように見えた。しかし貧しいのである。

 だが、内戦後まだ30数年、これから国造りが本格化するのであろう。

 虐殺の原因は、農耕民族と遊牧民族の生活レベルが余りにも変わって行った妬み、憎しみに少なからずの原因があるようだ。そして前向き、積極的、消極的、惰性等の長い間の生活習慣からも来ているようだ。

 また、一部の権力者たちの扇動は恐ろしいほどに民族を狂わしたようだ。

 だが、宗主国であるドイツやベルギーなど、当時の先進国の植民地政策が災いしている事が最も影響しているようだ。キリスト教も差別に手を貸している。神など信ずる人はいなかっただろう。悲しい事である。

 ヨーロッパの先進諸国はアフリカ、アジア、南米で資源確保の為かなりひどい仕打ちをしてきた。インカ文明の破壊などその代表である。その宗主国のスペインは昔の面影はなく債務超過国である。イギリスもしかり、フランスもしかりである。

 今ここにきて中国が同じことを繰り返している。力ずくの政策は恨みしか残らないことは事実なのにである。

 ルワンダ国民の勤勉さを垣間見た気がする。そして一人の優秀な指導者がいれば、未来に明るい灯を照らすことも実証されようとしている。

 ショッピングセンターでお会いした若き女性社長、原田桃子さんの何と生き生きとした目の輝きが印象的であった。ルワンダに来てまだ2年だという。

 創業者の佐藤芳之さんが素晴らしい経営者である。その人との出会いが原田さんを育てていると言える。組織にはたった一人でも優秀な人がいれば良い。組織は動くのである。

                                                おわり

 

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