小豆島 & 淡路島 紀行
大阪までは往復空の旅、あとはバスで一回り | 本州、四国を結ぶ3自動車道。今回は右上の「神戸淡路鳴門自動車道」 |
旅の初めに・・・ 2016年9月、日本の島巡りシリーズ、今回は瀬戸内海の小豆島、淡路島とする。過去に何度か本州、四国を行き来したがつい通り過ぎていた。 個人企画は面倒なので、ツアーに参加してのんびり・ゆったりの贅沢旅行である。新装なった姫路城も行程にはあるので眺めてきたい。 |
☆姫路へ
貸し切りバス、席も金を払い一番前の特等席 | 高速道度で、一路姫路城へ | 明石方面へ、「酒米買うなら土地を買え」と言われるぐらいこの三木市は有名 |
酒造好適米の代表ともいわれる山田錦はこの一帯 | 山田錦の旗がたなびく。何となく日本酒の香りが |
田園地帯には曼珠沙華(ヒガンバナ)。毒性がありネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物対策 |
☆姫路城
2015年平成の修復完了、真白になった |
日本初の世界遺産 1993年、法隆寺と共に、日本では初めての世界遺産となる。 姫路城の始まりは1346年、赤松貞範による築城とする説が有力。 天を舞う白鷺のように見える姫路城は別名白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)ともいわれ、 建築技術の粋を極めた傑作としてその美しさと形から日本一の名城と言われている。 現在の姫路城は、徳川家康の次女督姫を妻とする池田輝政により建てられたもので、関ヶ原の戦いの翌年にあたる慶長6年(1601年)から8年の歳月が費やされた。 それまで羽柴秀吉がその20年前に建てた三層の姫路城が建っていたがこの城を取り壊し、5層7階の天守となった。 姫路城には数々の物語が残っており、聡明で美しい姫といわれた徳川家康の孫娘である千姫の物語や、豊臣秀吉の参謀として有名な黒田 官兵衛もこの城で生まれており、宮本武蔵の妖怪退治、播州皿屋敷お菊井戸など建築以外にも多くの物語の舞台として魅力あふれるお城である。 |
門番は今でもいる? | 赤い鎧姿は女性でした | 姫山(標高45.6m)、石垣が14.85m、建物が31.5mで合計海抜92m |
天守閣に登るには順番待ち、息が切れる | 天守閣の中央には神棚 | 天守閣の窓から見る姫路城公園 |
1枚、2枚、3枚~9枚 とお菊が幽霊となって出てきた「お菊井戸」 |
昼でも出てきそうなお菊さんの幽霊 | 世界遺産の名城 |
☆今宵は姫路にて (市内散歩)
特産の姫路おでんは「生姜醤油」で食べる | 姫路駅の名店街で試食 | おでんを食べ過ぎて宿の夕食は食べきれない |
☆姫路→小豆島
姫路港へ | バスごとフェリーに乗る 100分 | 綺麗な船内、ビールとつまみで旅気分 |
☆小豆島へ
姫路から小豆島の福田港へ、帰りは土庄港から四国・高松へ | 島巡りはいつも見送り、見送られ、情緒たっぷり |
小豆島の形は、横(左)に向いた牛が、西を見ているような特徴的な形 |
☆小豆島とは・・・
☆小豆島 福田港
福田港(ふくだこう)は、小豆島町福田の小豆島東岸にある、地方港湾。 姫路港〜福田港(小豆島急行フェリー、航行時間約100分) |
☆寒霞渓 (かんかけい)
香川県の小豆島にある渓谷で国指定の名勝のひとつ。 範囲は東西7キロメートル、南北4キロメートルに及ぶ大渓谷で、そこに約1300万年前の火山活動により堆積した疑灰角礫岩などが、度重なる地殻変動と風雨による侵食により、断崖や奇岩群を形成している。 日本書紀にも記述がある奇勝地。 日本三大渓谷美、日本三大奇勝(耶馬渓 、妙義山、寒霞渓)や日本百景、「21世紀に残したい日本の自然100選」等に選ばれている。 |
||
標高612mまで奇岩が続く | 全長917mのロープウェイ |
頂上売店では、小豆島の名産がズラリ、オリーブオイル | オリーブまんじゅう |
人気NO1のオリーブナッツ | 小豆島は手延素麺も特産 |
標高612mから行う「かわら投げ」 | 寒く、霞(かすみ)がかかるから命名か? | 小豆島のバスもタクシーもこのロゴが使われている |
寒霞渓頂上から眺める小豆島の遠景 |
これから向かう「二十四の瞳映画村」と「岬の分教城」 |
上の写真をアップ | この辺でしょう |
紅葉の時期はこんな風 | ご存じ「一億円トイレ」 冷暖房完備 |
標高612m地点に設置するので一億円は必要! | 花で飾られて天国の様 | 床暖設備 |
☆小豆島を行く
ロゴ入りバスが市内を走る | 表示が出てきたッ! |
佃煮の製造会社、小豆島は佃煮が名産品 | 小豆島と醤油、その歴史は → こちら |
☆池田の桟敷 (いけだのさじき)
小豆島町にある石垣造の野天桟敷。国の重要有形民俗文化財。 八幡宮の秋の例祭で神輿や太鼓台の練りを観覧するために築かれたとされる。 建築年代は江戸時代後期の1855年あるいは1812年以前と推定されている。 桟敷の位置は城山麓で、この地形を活かして斜面に沿って切石積の奥行き3m×8段の桟敷が設けられている。その全体の規模は長さ80m、最高部18mに及ぶ。 かつては、桟敷のひとつひとつに所有権があり、売買できる仕組みができていた。 |
☆二十四の瞳 映画村
1987年公開の映画「二十四の瞳」の小豆島ロケのオープンセットを活用した施設群である。 壺井栄の小説『二十四の瞳』は、1954年と1987年に映画化された。映画『二十四の瞳』では、物語の舞台を、原作にはない小豆島と設定し、ロケも同地で行われた。 日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていく女性教師と生徒たちの苦難と悲劇を通して、戦争の悲壮さを描いた作品である。 |
看板の文字、風情あります | 映画村入口 |
映画村敷地を囲む塀には、当時の映画の写真が | 監督・木下恵介展 | 当時の映画のポスター |
構内は広い | 坪井栄の文学館も併設 | 小川まである |
映画が上映されている | 岬の分教場のモデル校 | 岬の分教場、全国から今も教員の来館が後を絶たないという |
○二十四の瞳 岬の分教場
「岬の分教場」の原型となった1902年に建設された旧田浦尋常小学校は、映画村の800M手前に現存する。 そちらは小説・映画の影響もあり「教育の原点」であると全国から今も教員の来館が後を絶たない。 | 1902年(明治35年)に建てられ、昭和46年まで苗羽(のうま)小学校田浦分校として使用。昭和29年高峰秀子主演映画「二十四の瞳」のメイン舞台。当時のまま保存されている姿は、当時の小学校の在り方を知ると同時に在りし日の懐かしさを呼び起こすと言われている。 |
岬の分教場、入口 | 板張りの廊下、昔はどこもこうだった | 一年生の教室 |
学芸員が詰めている | 二・三・四年生の教室には当時の懐かしいポスター |
木下惠介監督 | 主演 高峰秀子 高峰は当時29才、この「二十四の瞳」の撮影で助監督をした松山善三と、映画公開の翌年1955年(昭和30年)に結婚した。 |
この字を見ただけで、今も腰が引ける? | 教員室 | 刺繍でした |
当時のオルガン、メロディーが聞こえてきそうです | 大石先生が乗っていた自転車 |
文中にある 「教師は生徒を愛し、生徒は教師を慕う・・・」 教育の原点 |
こんなに広い構内、当時のお店や土産物屋が見所沢山 『二十四の瞳』の映画化以降、観光客が増え、1972年には150万人が島に訪れた。 |
☆小豆島が生んだ文化人
壺井栄(作家・詩人) / 壺井繁治(詩人) | 黒島伝治(作家) |
☆小豆島の産業
京宝亭は佃煮販売、しっかり試食 | 一番人気の「子持ち木くらげ」 |
佃煮の由来 江戸時代、徳川家康は淀川区佃の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、 佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として 雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、 小豆島は、醤油の産地でもあり佃煮が多く作られている。特に昆布の佃煮が 小豆島は、昭和40年代には、佃煮生産量日本一に…! |
日本の醤油製造大手5社 ・キッコーマン 千葉県野田市 小豆島には明治から昭和初期にかけて最盛期には400件 |
醤油のソフトクリームなんて、小豆島以外にはないでしょう | うどん屋さんも多い |
☆小豆島オリーブ公園
道の駅
|
||
オリーブのお話
オリーブは常緑樹で、野生種は有史以前から地中海沿岸からアフリカ北岸一帯に自生していた。この野生種を5000年から6000年前に栽培するようになり、これが現在の栽培種の起源となる。 その後、ローマ人は占領地への植民のためにオリーブ栽培を行い、結果として地中海沿岸の国々へ栽培を広げていく。 コロンブスのアメリカ大陸発見とともに世界に広まっていく。 日本へのオリーブの樹の伝来は、1862年にフランスから輸入した苗木を横須賀に植えたのが最初とされているが、成功せず。 小豆島へオリーブが来てから100年。 小豆島へオリーブがやってきたのは1908年。香川県は、農商務省指定のオリーブ栽培試験の委託を受け、官民一体の努力で果実を収穫するまでになった。こうして、小豆島は日本で初めて、産業用のオリーブ発祥の地となった。 小豆島は、オリーブの栽培に適した温暖な瀬戸内気候に恵まれていたためである。 世界のオリーブ生産量 国別ランキング 1位 スペイン 2位 ギリシャ 3位 イタリア |
小高い丘一面にオリーブの木 | 記念館には右のパンにオリーブをつけて食べ比べ |
オリーブは温暖な地中海を中心に広まる |
オリーブの原木 | たわわに成るオリーブの実 | イベント広場モニュメント |
☆尾崎放哉記念館
エリートの身でありながら、流浪、貧窮のうちに早世した薄幸の天才自由律俳人尾崎放哉の業績を紹介するために、彼が人生の最晩年を過ごし、終焉の地となった小豆島土庄町の南郷庵(みなんごあん)に建設された施設で、1994年4月7日に開館した。 | ||
昔は南郷庵(みなんごあん)、現在記念館 | 放哉を偲ぶ記念館と資料館、歩いて直ぐに西光寺 | 現在は役場の教育委員会が管理 |
☆ 「自由律俳句」の俳人
荻原井泉水(放哉の師) |
種田山頭火 | 尾崎放哉 |
記念館館内
小豆島は迷路が多い。放哉も土庄港から迷いながら、この近くに来たそうだ。近くのお婆ちゃんは優しく近くまで案内してくれた | |
記念館の前に到着するといきなり放哉の句が目に飛び込んできた 「障子あけて置く 海も暮れ切る」 吉村昭の小説の題名となった |
放哉のプロフィールが書かれている |
記念館の建物の前にある看板、役場の女性が一人受付をする | ツアーなので閉館までに遅れる旨を電話で伝えると「お待ちしています」と女性は親切に応対してくれた。ますます小豆島が好きになった。 |
記念館の庭には石碑が多数 | この松は放哉の頃からの木と思われる |
放哉から、師の井泉水宛ての手紙。 右から9行目に 「4カ月ぶりの風呂」 と書いてある。死の4か月前の封書 |
放哉を援助した、井上一二 | 同じく援助した、杉本宥玄住職 | 放哉と妻、馨 |
小豆島に渡った放哉は最初に醤油醸造会社経営の井上一二を頼る。遠慮したのか、言えなかったのか放哉は米や魚や野菜をくれろと言えず、写真の焼米、焼豆、ラッキョ、梅干の粗食を所望した。酒までは当然言えず | ノンフィクション作家の吉村昭の「海も暮れきる」衝撃的小説 |
HP管理人のブログ紹介 タイトルは俳人 → こ ち ら |
大正15年、41歳の若さで死す。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。放哉の墓は真ん中上段 |
放哉記念館の、前庭向かいにあるお墓の矢印 | 広々とした放哉の墓、妻の馨が作ったそうである 死後90年にもなるが、ビールや日本酒の供え物が絶えない |
左の放哉の墓からは住んでいた南郷庵(現記念館)と、世話をした杉本宥玄住職の西光寺、そして土庄の街も見える |
井上一二 | 杉本宥玄 | 荻原井泉水 | 種田山頭火 | 尾崎放哉 |
独りごと・・・ ・尾崎放哉が小豆島へ渡ったのは1925年8月、亡くなったのは翌年4月、たった8カ月である。 ・意外なのは種田山頭火と放哉は一度も会ってはいない事である。放哉の死後に山頭火が小豆島の墓に 人はそれほど起伏の多い人生を送るわけではない。それだけに山の頂と谷底の双方を経験したような人 ・放哉をめぐる問答では当時、放哉の出身地で鳥取県知事だった片山善博が知事室に放哉の ・「海も暮れきる」を書いた作家の吉村昭は1976年に小豆島を取材の為に訪れている。放哉が亡くなった ・記念館の女性が教えてくれた。1986年にテレビドラマ「海も暮れきる~小豆島の放哉~」がNHK(松山放 ・1980年代、俳優の渥美清は尾崎放哉に関する小説を読んで放哉を演じたいと脚本家の早坂曉に語り、 ・私は今回、高いお金を払い小豆島を訪れた。山頭火も好きだが、放哉も以前よりも好きになった。やはり ・残念ながら、井上一二や杉本宥玄のその後については誰も教えてくれなかった。言いたくないのかも知れ |
杉本宥玄住職の西光寺 | 寺の奥には五重塔 |
尾崎放哉資料館
タクシーに乗ると街の観光案内までしてくれた | 尾崎放哉資料館は記念館から車で5分 | 資料や写真がたくさん |
☆土渕海峡 (どふちかいきょう)・・・ギネスブック認定の世界一幅の狭い海峡
香川県小豆郡土庄町の、小豆島と前島の間にある海峡である。 全長約2.5km、最大幅は約400m。最狭幅は9.93mで、1996年ギネスブック認定の世界一幅の狭い海峡。海峡部の南側にある土庄町役場では横断証明書を有料で発行している。また海峡の最狭部分には香川県道26号土庄福田線、永代橋(えいたいはし)が架けられている。 |
||
世界一狭い海峡、ギネスブック認定、最狭幅は9.93m |
説明版 | 認定書は、ここ土庄町役場で発行 |
☆中山千枚田 (日本の棚田百選)
小豆島のほぼ中心部に位置しており、急峻な山腹に作られた棚田の数は大小800枚にも及ぶといわれている。県内では唯一、日本の棚田百選にも選ばれている。 映画「八日目の蝉」のロケ地となり、7月初旬に虫送り行事が復活。 7月初旬、火手と呼ばれる松明の光の列が稲の間を揺らめく様はとても幻想的だそう |
||
☆エンジェルロード
小豆島の前島から沖に浮かぶ中余島を経て大余島(総称・余島)へと続く約500mの細長い砂州の道。 『天使の散歩道』とも呼ばれ、潮の干満により道があらわれたり海に消えたりする(トンボロ現象)。このため1日に2回干潮の時のみ渡ることができる。 |
||
☆大坂城残石記念公園
土庄町立の公園。 1640年代に大坂城修築の用途で近隣の丁場から切り出されて港まで運搬され、船に積まれる予定であった40個の残石が現存しており、それに隣接して大坂城残石資料館の施設群が整備された。 |
||
☆迷路のまち
香川県・小豆島にある迷路のように入り組んだ地域と周辺散策路の名称である。 南北朝時代、備前児島の佐々木信胤が南朝方に寝返り、小豆島へと押し入り星ケ城を拠点に構えていた。これを討ち取るため北朝方の細川氏の軍勢が小豆島に攻めこみ、南北両朝の軍勢が陸海での総力戦となった際に佐々木勢が攻防に備え路地を複雑に入り組んだものにした、というのが土庄町周辺に残る迷路型路地の起こりである。 地区内には小豆島尾崎放哉記念館などがある。 |
||
☆小豆島大観音
香川県小豆島土庄町にある寺院。本尊は聖観世音菩薩。 スリランカの仏教聖地、キャンディに位置する佛歯寺(ダラダー・マーリガーワ寺院)から1985年に釈迦の犬歯を寄贈されたのをきっかけに、大観音像を建立。1994年に竣工、1995年に公開された。大観音像の高さは明らかにされていないが、約50~60mといわれる。胎内には本尊をはじめ、寄贈された約1万体の胎内仏が並ぶ。 |
||
☆ホテルで、夕陽・温泉・旨い物づくし
四方を海に囲まれた小豆島、魚料理に目を見張る | 小豆島の地酒で乾杯、これは旨い |
余りにも豪華な部屋なので落ち着かない | 平成になって小豆島には待望の天然温泉が湧出した。小豆島の温泉は瀬戸内の景色が楽しめ、夕日に染まる頃は絶景である。 |
燃えるような夕焼け空 | 早朝からフェリーが行きかう |
小豆島の土庄港(とのしょうこう)、そろそろご来光か |
「小豆島・土庄港(とのしょうこうみなと)を唄った曲」 (石川さゆりのカヴァー曲) |
ホテルは海に面する景勝地 | 小豆島と名前がつけばロマンが漂う |
ホテルの庭にも大阪城築城残石 | 石の上部にはノミの跡が残る |
☆二十四の瞳 平和の群像
1954年(昭和29年)に公開された松竹大船撮影所製作、木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演による日本映画が第一回目である。 女性教師と12名の生徒から成る群像。 香川県丸亀市出身の彫塑家 矢野秀徳の作で小豆島バスによって造られ、1956年(昭和31年)に除幕された。題字の揮毫は鳩山一郎。像の正面に「平和の群像 内閣総理大臣 鳩山一郎」と書かれている。1997年(平成9年)土庄町に寄贈された。 |
||
土庄港の前には「平和の群像」が立つ | 小豆島といえば「二十四の瞳」が今では代名詞 |
☆土庄港 (とのしょうこう)
土庄港は、土庄町(とのしょうちょう)にある地方港湾。 四国・高松港 - 土庄港 高速船で(航行時間約30分/四国フェリー) |
||
土庄港フェリー乗り場 |
港にある「オリーブの歌」の歌碑 |
☆四国・香川県・高松に入りました
ガイドはグッズを用意、ルート図で説明 |
高松駅 | 栗林公園(りつえんこうえん)の表示 |
☆栗林公園 (香川県高松市)
公園の起源としては、元亀・天正(16世紀末)の頃から始り、1745年水戸徳川家・高松藩主により完成、100余年の歳月をかけた名園。 『ミシュラン観光ガイド』に「わざわざ訪れる価値のある場所」として最高評価3つ星に選定された。2012年には、アメリカの庭園専門誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』の「2011年日本庭園ランキング」にて、足立美術館(島根県)、桂離宮(京都府)に続く3位を獲得した。 大名庭園である水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園は、日本三名園として名高いが、栗林公園は日本三名園より優れていると言われている。 |
☆四国高松 (車窓)
この辺は米の二期作か | 曼珠沙華が美しい |
☆琴平・金刀比羅宮(ことひらぐう)
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社。 こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。 現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮でもある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 年間参拝者数 ・金刀比羅宮 300万人 |
「こんぴらさん」の看板が見えてきた | 杖を貸してくれる | 飛ぶように?売れる「さぬきうどん」 |
本日は現在地から真ん中上にある「御本宮」まで、785段 |
年間300万人も参拝するという | ツアー客には「境内案内」のオジサンがついて名調子 |
先ずは鳥居で頭を下げて、作法だと言う | お犬様にも頭を下げて、とは云わなかった | 1,000万を寄付すると石碑が立つと言う |
手を洗い、口をゆすいで、GO! | こういう所があちこちに | 結構、急です |
ようやく着きました、もう歩きたくない | 海上守護、農業ほかの神様とか |
琴平町遠景
琴平町遠景、人口9,000人、門前町として観光が主産業 |
四国八十八か所巡り、お遍路さんも目立つ | 籠で来る人もいる | 清水港の「森の石松」も来たんですね |
傍らに咲く白い曼珠沙華 | 本日はバスの中で美味し~い弁当が | でも、こんぴらさんでさぬきうどんを食べてしまった |
☆鳴門公園・渦の道
渦潮の鳴門へ | 渦の道 |
長さ1629mの橋の下で、渦潮が見られる | 恐る恐る覗きこむ |
定期的に渦がまく | 目が回る |
渦発生のメカニズム 鳴門海峡は、本州と四国の間にある瀬戸内海と太平洋とを結ぶ海峡の一つで、幅が約1.3km。潮汐により1日に2回、大量の海水が瀬戸内海に流れ込み、また同様に1日に2回瀬戸内海から流れ出す。瀬戸内海と太平洋の水位差は最高で1.5mにも及ぶ。海峡の幅が狭いことに加え、海底の複雑な地形も影響し、潮流は13 - 15km/hの速度で流れる。大潮の時には20km/hに達することもある。この潮流の速度は日本で一番速く、「世界三大潮流」にも数えられることもある。 「世界3大潮流」 1.イタリア「メッシーナ海峡」(シチリア島) 2.アメリカ「セイモア海峡」(ロスアンゼルス) 3.日本「鳴門海峡」(淡路島・鳴門) この早い潮流と、海峡両岸に近い穏やかな流れの境目において、渦が発生する。 |
☆淡路島へ
ここは温暖な瀬戸内海 | あわじ国・官房長官は上沼恵美子さま、この島は個人所有らしい。 |
歴史 記紀の日本列島の国産みの神話では、淡路島は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本列島中、最初に創造した島であるという。 古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いだとされる。 淡路島は瀬戸内海では最大の島、人口は最新の国勢調査で2010年10月1日現在14万3589人。 明石海峡の峡間は3.6km。潮流が早く、古くから海の難所である。瀬戸内海と外海(太平洋側)の潮位差により起こる「鳴門の渦潮」が著名。 |
四国から淡路島へ | あわじ花さじきへとバスは行く |
☆あわじ花さじき
「あわじ花さじき」は、眼下に広がる花のジュウタンを楽しめる、極上の見物席として、『あわじ花さじき』と命名された公園。 兵庫県が設置した近畿地方屈指の花の公園であり、1998年4月4日に開園した。 年間7万人が訪れる。 |
☆淡路島アレコレ
・地場産業
・線香~昭和30年代半ばには線香生産量日本一となり、現在では全国生産量のうち、70%を占めている。 ・淡路瓦(いぶし瓦)~三州瓦、石州瓦と並ぶ日本三大瓦の一つ。いぶし瓦シェア日本一。 ・真珠核~神戸市では、日本の真珠加工・流通の80%を取り扱っているが、その真珠核のほとんどが淡路島 ・農業 淡路島の世帯数は53,000件、内農家戸数は8,800戸。昭和40年代から三毛作が行われており、 ・出身人物 笹野高史(俳優)、山口春吉(ヤクザ、山口組初代組長)、渡瀬恒彦(俳優)、渡哲也(俳優)、 上沼恵美子さま(タレント) |
☆淡路島の特産品
淡路ビーフ | タイ | タコ |
鱧(ハモ) | イカナゴ | 3年フグ |
牛乳 | たまねぎ | レタス |
みかん | 手延べそーめん |
びわ | 地酒 |
☆瀬戸内少年野球団 (映画)
郷ひろみも出ていた | 夏目雅子の遺作 | 島田神助もフアンだったよいう |
『瀬戸内少年野球団』 エピソード
・淡路島出身である作詞家阿久悠の自伝的小説および、それを原作とした映画、テレビドラマ。 ・本作は、女優・夏目雅子の遺作であり、俳優・渡辺謙の映画デビュー作であった。 ・共演者である島田紳助が夏目の印象として「ものすごいいい人」と語っており、本作での子役たちが親元を離れて寂しがっているだろうと思い、撮影期間中、夏目が子役たちと一緒にお風呂に入り、背中を流してあげていた挿話を披露している。その際、子役たちから夏目とお風呂に入った事を聞かされた紳助が空ビンを渡して「今度、夏目さんと風呂に入った時、このビンに夏目さんの残り湯を入れてこい」と伝えた。 |
銅像が立つ | ロケの小学校 |
旅を終えて・・・ 日本の離島巡り、次は是非とも小豆島にしたかった。尾崎放哉記念館を訪れるためである。放哉は天国と地獄を経験する様な人生を歩んでいる。日本で最高の大学を出て、一流会社の役員も務め、生まれた実家も良く、綺麗な奥さんも得て、日本の文化の頂点とも言える俳句団体の期待される地位を得ながら、全て酒癖と口の災いと性格の甘さが原因で人生を投げ出している。寺男として放浪、何か所も点々とする。墓の掃除や下働きなど、人には言えない事までせざるを得なかっただろう。だが何かがそうさせたとも言える。 生活が困難になればなるほど、句に凄さが増している。晩年は食べる事も水を飲む事さえも病気(結核)で出来ず、近くのお婆ちゃんに世話になっている。 小説家は、松本清張も吉村昭も取材では緻密である。凡人の旅もそうあらねばならないと思う。常に課題と問題意識が無くなった時に、旅も終わるのかもしれない。漂泊と言うのか放浪と言うのだろうか。 終わり |