祖先を訪ねる旅 紀行
奈良県吉野郡十津川村の「果無集落」(はてなししゅうらく)(世界遺産)の景観 |
私の祖先は奈良県 である。
昨今、仲間や友人の集まりで「家系図」を作ったという話題が多い。 自分のルーツ(先祖)をたどり、戦後70年目にして子孫に伝えて行く役回りの年代であるのかもしれない。悲惨な戦争と体験を伝え、その後の暮らしぶりを伝えるのも大事である。 2015年3月、梅と桜が咲く頃合いに合わせ、先祖の地を訪ねて奈良一周の旅をした。 |
便利な時代で「家系図作成代行センター㈱」や「戸籍以上の家系調査 家系図作成マニュアル」A4版452ページ、DVD108分 などまである。
それによると ◆戸籍以上に200年400年1000年と家系をたどることも可能。 ◆1000年以上前の天皇家から下って来る調査も可能。 ◆先祖の暮らしぶりの調査も可能。 費用となると「巻物(掛軸)家系図220,000円。 その他、戸籍調査(家系図作成)業務 料金・価格等々。 合計1,450,000円にもなるようだ。年金1年分が消えてしまいそうである。 しかし、365日暇を持て余している御身分である。ルーツをたどる事は何より楽しく新発見もある。専門家に頼らず自分で作る事とした |
最初に始めるにあたり、何をどうするかを考える事が必要である。
1.先ず関係者の名前、住所、電話、戸籍を調べる。 2.親戚の高齢者に会ったり、電話をして聞く。・・・・ここで厄介なのは高齢者は暇で、退屈で、話が長い。なかなか要点が掴みにくい。 3.戸籍謄本関係を調べる。・・・・しかし昔の事であり、また市町村合併でスムーズに当人にたどりつくのがなかなか難しい。 4.当時の歴史や暮らし振り調べ。・・・・現代は便利で、インターネット検索でかなりの情報を取得可能である。 5.北海道移住の前の、出身地が判明すると関係者や縁戚を探し電話調査。・・・・電話代が大変である。 6.本州の祖先の地を訪ねる。・・・・観光と調査を兼ねて楽しい。 7.移住以前の時代背景、歴史等を調べまとめる。この時、現地や人物の写真を入れると距離感、温度差、雰囲気などが掴める。 |
☆最初の作業(場所の特定と当時の職業の推測) |
北海道移住後の、家系図は意外に簡単に作れた。年配者の記憶をつなげるとスムーズであった。
しかし、移住前の地:奈良県吉野郡西吉野村までは判明したが、既に当地の親族は途絶えており、 一つの手掛かりとして、同地区に住む80歳の古老が電話の応対をしてくれて、親戚となるその人は知っているという事で、尋ねる約束を得た。 しかし、先祖の職業が判明しない。そこで奈良県のこの地、吉野郡西吉野村界隈の歴史をたどり、考え付く職業の推理から始めた。
先祖の職業は果たして(?) 1.柳生の剣士か忍者かも? 以上に焦点を絞り、その地を訪ね歩く事とした。しかし、殆どが観光目的になるやもしれない。 |
・・・・・絵から想像する我が祖先像・・・・・
1.柳生剣士 | 2.奈良の坊主 | 3.平城京貴族 | 4.後醍醐天皇 | 5.高取藩武士 | 6.百姓 | 7.木こり | 8.十津川郷士 | 9.修験者 |
以上9つの点から歴史を調べる事にした。これからはまさしく日本史の世界である。ますます熱が入る。 ただ一つ、北海道に渡って来た祖父は頭にチョンマゲがあったという話や、祖母は厳格な武士の家に育ち、厳しかったという人達もいたが定かではない。 北海道に移住した祖父母は初代、その子供である私の親は2代目となる。既に初代、2代目は全員が亡くなっており、3代目の我々孫の世代しかいないが、誰に聞いても昔の事は分からないと云う。 年齢を重ねないと、祖父母や親の話には耳を傾けないのが通常である。聞いておけばよかったと反省するばかりである。 以下、想像できる9つの職業に沿って訪ね、写真を掲載した。 |
★そして・・・
系図作りに没頭した結果、 やはり祖先が住んでいた奈良の地を見たくなった。「百聞は一見にしかず」である。 同時に祖先がどのような暮らしと、仕事は何をしていたかを知りたくなってきた結果が、上記の推定した9種類の職業である。ここまでくると遊び心に火が付いてしまった。自分でもあきれる。 この2ヶ月間、奈良の歴史や観光名所の調べ、そして挙句の果ては北海道への移住や、屯田兵の実態まで研究することになってしまった。ここには一部しか掲載していないが膨大な資料になってしまった。 暇そうな姉妹を誘い、いよいよ奈良の旅を計画をした。まさに「祖先を訪ねて何千里・・・」 下記がその計画表。学生時代の修学旅行再来である。既に姉妹の心は奈良へと飛んでいるようだ。おまけに宿泊場所は全て温泉。そして銘酒とグルメの旅になるだろう。 |
1.柳生の忍者かも? |
柳生藩(やぎゅうはん)は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。 石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生氏は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。藩庁は柳生陣屋。 宗矩、十兵衛、宗冬、列堂がテレビ・映画でも活躍。 |
先ずは大阪伊丹空港に降り立つ | レンタカーで、一路369号線を奈良の北東、柳生の里へ。途中の峠は雪がチラホラ | 柳生街道に入ると、柳生の里は近い |
腹ごしらえ、その名も「十兵衛」と云う食堂へ 姉と妹夫婦が今回のメンバー |
野生猪肉(ぼたん鍋定食)を注文 | ムム~ツ、微妙! |
観光案内所のパンフレット | 柳生新陰流の巻物か | 柳生一族の系譜 |
柳生十兵衛 | 柳生宗冬 | 柳生義仙 |
柳生石舟斎の碑 | 柳生の家紋:二枚笠 | 柳生十兵衛 |
小高い丘に立つ「十兵衛杉」 | 柳生三厳は十兵衛 |
柳生の地区を一望できる高台に立つ芳徳寺へ | 柳生藩主柳生氏の菩提寺 | 沢庵漬けを考案した、沢庵和尚の開山により創建された |
芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ。 | 宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した |
旧柳生藩 陣屋跡 | 旧柳生藩 家老屋敷 |
2.古都奈良ゆえに神社仏閣関係者 |
奈良は、平安京に遷都されるまで、古代政権の中心都市として栄えていた。 京都が洗練された美しさのあるところだとすれば、奈良はおおらかな美しさのあるところである。 |
☆東大寺
東大寺は、奈良市にある華厳宗大本山の寺院。 奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。 「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊としている。 |
名物の鹿がお出迎え | 鹿は油断が出来ない。米国夫人のリンゴの袋を破り1個くわえて食べてしまった。 | 東大寺は外国人が非常に多い |
盧舎那仏像(大仏) | 奈良の大仏さんで有名 | 梅の花と東大寺 |
☆春日大社
春日大社は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。 全国に約1000社ある春日神社の総本社である。 |
東大寺から歩いても至近距離にある春日大社 | 石燈篭で有名 | 中門・御廊(重要文化財) |
ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録 | 鹿の絵札 |
☆興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。 |
若草山は奈良県奈良市、奈良公園の東端に位置する標高342m、面積33haの山 |
国宝興福寺 | 高さ50mの五重塔は奈良のシンボル |
☆古都:奈良の銘酒
奈良公園はJR奈良駅が近い。JRスーパーホテルLOHASUへ、もちろん温泉付き | 奈良駅前の飲食店街、やまと庵へ | 酒楽の看板通り、酒が美味いと云う |
お兄ちゃんのお薦めは「稲の国の稲の酒」 | 奈良は梅の名産地、梅酒がこれまた美味い |
ほろ酔い気分でホテルへ | 最上階の12Fへ | 天然温泉で疲れをとる |
12Fから見る若草山 | 神社仏閣があちこちに見える |
3.平城京貴族 |
平城宮は奈良の古都平城京の大内裏で710年に遷都された。 平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。 周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門を始め豪族の姓氏に因んだ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りした。東端には東院庭園がおかれ、宴等が催された。この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。 平城京に都が置かれていたのは70年余りである。 |
☆平城宮跡資料館
建物模型や航空写真、発掘のジオラマ模型などで平城宮を分かりやすく展示している。 |
平城宮跡資料館へ | 2010年にリニューアルオープン | ボランティアの無料解説者が2時間も案内 |
ロビーの床には奈良の地図 | 平城京の模型 |
平城京の地割 |
大極殿 | 役所の復元 |
貴族が使用した机と椅子 | 工作所 |
皇族や貴族の食事 | お膳 |
皇族や貴族の食事風景 | 寝室 |
☆第一次大極殿
朱雀門の真北約800mに堂々とそびえる「大極殿」。 |
国家儀式の際に天皇が出御する建物、高さ27m | 広大な土地にはシラサギ |
第二次大極殿の案内 |
入口 |
正面 |
天皇が着座する玉座 | 玉座の椅子 | 天井伴の模様 |
杉や檜が使われている |
木材の工程 |
奈良時代役人の収入 |
平城京から見る若草山 | 遠景 |
☆遺構展示館
発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができまる。 |
発掘調査で見つかった遺構の展示 | 模型 | 日本古来の様式 |
想像図 | この穴に柱が立っていた | 木簡 |
角の飾り | 実物が作られた | 建物の上に1m程岩石がつもっていた |
☆法隆寺
法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。 金堂、五重塔は現存する世界最古の木造建築物群である。 |
法隆寺入口 | 法隆寺遠景 |
春2月は閑散 | 五重塔は世界最古の木造建築物群 |
法隆寺前のレストラン街 | 本日も柿の葉寿司 |
4.後醍醐天皇の南朝の地である。天皇、貴族まで高貴な身分 |
後醍醐天皇 |
後醍醐天皇は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:1318年 - 1339年)。 鎌倉幕府を倒して建武新政((天皇が自ら行う政治)を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。 この南朝の吉野朝廷が置かれていた「賀名生」(あのう)地区が祖先が住んでいた所なのである。ひょっとすると、あり得るかも・・・ BS-ドラマ「浅見光彦シリーズ:後醍醐天皇末裔殺人事件」 なんぞで小説を書けるかも。 |
年 表
1336年 足利尊氏が京都で光明天皇(こうみょうてんのう)を天皇にする。(北朝) 1339年 吉野で病死(52才) ● 活躍した時代 1288年~1339年 鎌倉時代~室町時代 ● 活躍したこと 【正中の変】 1331年 後醍醐天皇が元弘の乱(げんこうのらん)をおこす。
1332年 後醍醐天皇が鎌倉幕府にとらえられ、隠岐島(島根県)に流される。その後、後醍醐天皇は隠岐島から抜け出し、 1333年 鎌倉幕府が滅びる。 1334年 後醍醐天皇が建武の新政を始める。 1335年 足利尊氏が後醍醐天皇にそむき、反乱をおこす。 1336年 足利尊氏が京都で光明天皇を天皇にする。 (北朝) 固有の戦力をもたない天皇や貴族が再び政治の中心になることなどありえなかったのである。戦い勝つには戦力が必要であり、戦うのは武士である。貴族や天皇が直接戦うわけではない。 また、鎌倉幕府の誕生によって、武士たちは自分の力に目覚めており、何かあれば自分たちが武力にうったえれば、武力のない貴族や天皇は何もできないことに気がついていたからである。 後醍醐天皇は自分の理想通りの政治を始めたのだろうが、この政治は始めから武士によって、つぶされる運命が決められていたといえるだろう。 |
★賀名生(あのう)皇居跡(西吉野)
この地は現在、賀名生梅林 | 賀名生皇居跡は、現在堀家住宅 | 現在の西吉野地区は山間の地 |
賀名生梅林は、丘陵を麓から中腹までおおいつくすように2万本の梅が咲き誇る県下有数の梅林として知られている。2月下旬から3月下旬、さながら雲海のように梅の花がほころび、ほのかな香りが、山々を伝うように漂っている。 700年前の南北朝時代に都を追われた公家たちによって賀名生の梅の花が歌に詠まれているところからも、既にこの地の梅が香り高く咲き誇っていたことが分かる。 さらに明治10年頃から果実の収穫を目的として栽培され始め、大正12年東宮殿下の御成婚を記念して5千本の苗が植えられ、その後大きく増殖されて、賀名生の梅林として知られるようになった。純白や淡い紅色の梅の花は早春の陽光を浴びて、爽やかで壮観な風景を展開させている。南朝の悲しい史話を帯びて、雅やかな梅の花の色合いは、丹生川の支流に南朝のロマンを映しているようである。 梅林入口付近には、南朝の行在所だったといわれる賀名生皇居跡(堀家住宅)(重要文化財)がある。
所在地 : 〒637-0117 奈良県五條市西吉野町賀名生 |
賀名生(あのう)の皇居跡 |
賀名生の説明 |
国道沿いの看板 | 建物にも看板 |
歴史民俗資料館へ | 西吉野地区の資料を調べる事にする |
歴史民俗資料館前庭にある「賀名生の由来」説明 |
我が先祖の手掛かりを調べるが難しい | 昔の水害で北海道へ移住か?と調べてみたが・・・ 結局それらしき記載は無かった |
この時期、梅林の梅は満開 | 歴史民俗資料館前庭の梅も満開 | 祖先の親戚1件を探しに行く事にする |
☆祖先の唯一の親戚を訪ねる
その親戚は林業をしていたと云う情報で山間地区へ | 限界集落で、今は20件ほどしか住んでいない | 片道1車線もないほどの狭い道路を行く |
家はあるが廃墟が多いようだ。全てが樵をしていたらしい |
ガードレールの向こうは川で、筏で木を運んだと云う | その昔は立派な住宅であったろうと思われるが、今は住んでいない |
30分走行して、2件しか商店は無かった | 対向車が来ると交わせない道幅となる |
ようやく、ただ1件の親戚の家を発見するが、既に廃墟 | 表札だけがむなしく | 北海道に移住した祖父の、親戚が住んでいたが今は子孫は大阪へ転居し消息が知れなかった |
家の裏山にお墓を発見 | 戸籍の除表での名前を発見 | 昭和56年に他界していた |
ただ1件の親戚が住んでいた、近所の古老が案内してくれた | 古老御夫婦に丁重にお礼を言い、在りし日の想い出話しを伺う |
☆奈良:五條市のホテル
五條市の温泉付きホテル「リバーサイドホテル」に宿泊 | なかなか良い温泉 |
豪華な懐石料理 |
二日目は御座敷でお好み料理 | 名物柿の味、奈良漬 | 奈良の日本酒に合う |
☆南朝の里 賀名生梅林
約2万本の梅林は全国有数 |
白い玉すだれ |
こちらピンクの玉すだれ |
山の斜面の至る所に梅の木が |
家の軒先にも梅の木がある | 農家を媒体とするこの辺は梅の販売が仕事 |
日本の風物詩と言える |
農家の軒先で売る干し柿 | 青空に映える幟 |
梅の花のトンネルを行く |
立ち去り難い景観 |
梅の木は和歌山県に次いでその数は多い |
☆有名女優 追っかけ部隊
今が旬の女優、 尾野真千子の実家が近くにあると、梅林の農家の叔母さんに聞いたので見学に行く事にした。お父さんは大工さんで、この家も建てていただいたのですとも聞いた。 | 凄い山奥を進む事30分、道路標識の一番下に名前を発見。 |
数えるほどしかない集落だが、立派なお寺が近くにある | 近辺には「福寿草」の自生地が有る |
まだ数輪残っていた | 福寿草は春の花の名残 |
有名女優の実家と云う事で観光客が結構来ておりました。ミーハーはいるものです | 立派な盆栽が沢山、お父さんの趣味の様 |
実家の前の梅も満開 | 尾野真千子 |
★余 談 |
☆奈良は、NHK朝ドラの主人公「尾野真千子」の出身地。その住所はやはり奈良県吉野郡西吉野村である。 賀名生梅林のすぐ近くである。草深い田舎で、北海道に祖父母が移住するまでの住所が、車で10分の近さである。 またまたひょっとすると、私が貴族の末裔ならば、尾野真千子は後醍醐天皇の忘れ形見とも言えるかも知れない。何となく御顔が尊く見えてきた。 「我が祖先」の戸籍除表で、宗檜村(現西吉野町)村長は吉野村津越「尾野清一郎」とある。尾野真千子の祖父であるまいか。 尾野真千子の父親は大工で4人姉妹である。 実家は観光名所になっているらしい。ミーハーの我々も当然訪れるだろう。 そして、我々の祖先が万が一にでも、更に云う。 万が一にでも後醍醐天皇の末裔ならばこれはミステリーである。そう小説を書いて映画化せねばならない。 題名は 「浅見光彦シリーズ77話 : 後醍醐天皇末裔殺人事件」 ヒーローは誰でも良い。ヒロインはやはり「尾野真千子」 である。しかし、もっと若いアイドルがいいかな~ 夢を見るのは勝手である。 尾野真千子の実家 奈良県吉野郡西吉野村津越(現五條村吉野町)
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★吉野南朝皇居跡(吉野山)
吉野山MAP |
第96代:後醍醐天皇 | 吉野朝宮跡 |
吉野朝廷跡 三重塔 | 南北朝時代の南朝後醍醐天皇の玉座 | 当時の朝廷貴族 |
吉野といえば言わずと知れた日本一の桜の名所。春になればおよそ3万本もの桜の花が咲き乱れる。 今から約700年前の南北朝時代、ここ吉野山には南朝(南の朝廷)が存在し、後醍醐天皇が政治改革に努めていた。 下千本駐車場から徒歩約15分。 |
☆如意輪寺
五條市から吉野川に沿って吉野山へ向かう | 如意輪時には後醍醐天皇の陵がある |
寺
後醍醐天皇陵 | 近くには寄れない陵 |
微かに読み取れる | 邸内の注意書き |
☆吉野山は日本一の桜の名所
春3月末はまだ桜の開花には早かった | 桜を見るベストポジション |
満開時にはこの様に見える |
三月末は早かった | 辞世の句 |
☆吉水神社
吉水神社は後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する。 | 後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け、一時居所とした | 南朝時代の後醍醐天皇の玉座もある |
源義経や豊臣秀吉ゆかりの地でもある | 豊臣秀吉も花見に立ち寄る |
後醍醐天皇の玉座の部屋 | 後醍醐天皇の玉座 |
後醍醐天皇の玉座 | 南朝皇居 | 貢献が有った楠正成 |
日本国歴代天皇写真 | 右下には昭和天皇 |
若かりし頃の後醍醐天皇 | 豊臣秀吉愛用の金屏風 |
☆金峯山寺 (きんぷせんじ)
奈良県吉野郡吉野町にある修験道の本山である。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角と伝える。 金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。 吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路でもある。 |
金峯山寺 | 一帯は世界遺産 |
5.江戸時代、高取藩の地であり、藩主や重臣・士族、下級藩士まで幅広い |
高取城 概略 高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城。 その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備された。 本多氏が絶えた後、譜代の大名の植村家政が寛永17年(1640年)に入城。明治2年(1869年)の版籍奉還まで、14代に渡り居城した。版籍奉還により明治政府の管轄になり、明治6年(1873年)に廃城となった。 |
高取藩とは・・・ |
御家人→天領→植村家 (9代目は老中となる名門)
また上村家は家康の下で抜群の戦功を挙げたことから、歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代であった。 |
☆高取藩は海抜584mの山上に・・・島津、毛利軍を迎え撃つために山城を築いた。
司馬遼太郎 「街道をゆく」 大和・壷坂みちより ・・・・・城主が越智氏から筒井氏、本多氏と変わるうちに規模も大きくなり、やがて徳川初期に植村氏が入って、この山奥の急峻に累々と石垣が組みあげられ、近代的な築城形式に模様替えされた。徳川幕府がここに外様大名などを置かず、もっとも信頼できる譜代大名を封じ、当時すでに大時代だったこの山城をわざわざ補修改築させたのは、わかるような気もする。 幕府の近畿地方の防衛戦略という大きな視野からの判断だったかもしれない。徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。
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高取城復元画(海抜584m) |
高取藩武家屋敷 植村家忠現町長が居住 | 高取藩屋敷前 人形 | 16代目高取藩の殿様植村家忠は、今は高取町町長 |
☆高取藩~廃藩置県~最後の殿様は・・・ 14代、植村家壷(いえひろ)(従五位下出羽守)【明治元年閏4月14日藩主就任-明治4年7月14日藩知事免官】 明治2年6月17日に版籍奉還により、植村藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免職され、9月に東京へ移った。明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵となる。 |
☆殿さまの末裔は今・・・ 高取藩の武家屋敷(上の写真)に当時の藩主・植村氏の子孫が現在住んでいる。しかもその子孫とは、「現役」の高取町の町長で、植村家忠である。江戸時代の高取藩を治めた藩主・植村家の末裔で16代目にあたる。 由緒ある高取町で、県議会議員も努め、世が世なら藩主であるべき植村町長が二期目の町長をしているが、現在、汚職問題で騒がれているようである。 |
高取城MAP |
高取町に入ると高取城跡の看板が出現 | 高取城跡の麓まで車で行く。今も残る武家屋敷風建物 |
高取藩の家老屋敷 | さすが家老の屋敷、門構えと塀が豪壮 | 今は藩主・植村家の末裔で16代目が住む |
植村家長屋門の説明板 | 「」で有名な壺坂寺を経由 |
ここはトレッキングで有名らしい | 個人や団体のトレッカーとすれ違う | 七つ井戸が車の最終地点、後は急峻な坂道 |
案内版 |
かなりの勾配を登る | 朽ち果てそうな石垣が見えてきた | もうじき城跡か |
途中から見ると登山口が小さく見える | ハイカーの団体が見える | 城郭がはっきりと見える |
城跡はかなり広い | 新櫓跡 | 高取城址 |
本丸の説明 |
若い女性のトレッカーも沢山目撃、人気のコースらしい | ここが天守閣跡 |
城跡から見る高取町 |
廃藩置県後の藩主と藩士の扱い 明治新政府は、「われわれの住む土地は天子(天皇)のものである。どうして私有することができようか。今、謹んでお返ししたい」という上表文をさしだした。他の大名たちも遅れてはならないと、これにならった。こうして政府は、すべての土地・人民を収めることに成功した。 政府は旧藩主を知藩事に任命し、今までの収入の10分の1を家禄とさだめ、かれらを華族とした。また藩主につかえていた藩士らを士族と呼ぶことになったのである。奉還がスムーズにすすんだのは、幕末以来の借金、とりわけ軍事費の支出に追われて、藩の台所はまさに火の車だったからである。 旧藩主→華族 全国の知藩事は職をとかれ、家禄と華族の身分は保障されたが、東京に在住することを命じられた。 藩 士→士族 旧藩の重臣たちは、あらためて政府から任命されて県の仕事をすることになるが、その他の士族の一部は 政府が天皇直属の軍隊をつくって東京を固めるための役に付いたり、明治維新によって出来た警察・巡査に やがて明治政府の抜本策である「屯田兵」や「北海道開拓団」により多くの人々が移り住む |
6.農業従事者 |
農民の暮らし 近畿地区では明治16年以後干ばつや風水害がたびたびおこり、深刻な不況にみまわれた。 そのため、明治維新後の改革重税で苦しんでいた農民が、地租をはじめとした出費の増加に苦しみ、多くの農民が土地を手放し小作農に転落した。 農民の手放した土地は、おのずから余力のある地主や自作農などのもとに集められていき、寄生地主と呼ばれる新しい地主が生み出されていったのである。 やがて農民の多くは土地を離れ、新天地を目指す術しかなかった。 |
明治維新後の税改革で抗議する農民 | やがて一揆や暴動となる | 自然災害で苦しむ農民 |
現代の農業 奈良盆地では、雨が少ないことから多くのため池が作られ、今でも大小あわせると約6,000個を数える。 近世には、米の他に綿や菜種、たばこなどの商品作物が盛んに栽培され、「田畑輪換」と呼ばれる水田畑作の営農形態が確立されてきた。 現在は、京阪神大消費地への至近性を活かし、多品目少量生産ながら、高度な栽培技術を駆使した生産性の高い多彩な農業を展開している。 五條吉野地域の北部では、国営で開発された農地を中心に柿や梅などの果樹栽培が盛んであり、かきは全国屈指の産地となっている。 また、南部では、わさび、山菜、きのこなど地域の特性を活かした特産品の生産や豊富な水資源を活かした鮎やあまご など内水面漁業も行われている。 |
柿の生産は日本一の名産 | 奈良盆地は米の生産にも適している | 梅干し生産も全国有数 |
7.奈良・吉野は山国で林業従事者でキコリが多い |
吉野の美林 奈良県は近畿地方のほぼ中央に位置し、海岸に接しない内陸県である。 自然林地帯を中心とする南部吉野山地は、険しい岩峰、深い渓谷、早瀬急流、いくつもの瀑布が連続するすぐれた山岳風景がひろがり、吉野川、北山川、十津川の渓谷が南北に流れている。 長い歴史を持ち、杉の美林で全国に知られている吉野林業の特徴は密植にある。普通は1町歩あたり3,000~4,000本の苗を植えるが、吉野では1万本以上植えつける。そして植えつけ後、十数年たったころから間伐を繰り返し、100年以上におよぶ長期にわたって育成していくのである。 吉野杉は樹齢に応じて垂木、床柱、酒樽として需要がおおく、何より吉野は京都・大阪の市場に近く、吉野川などの河川で筏流しができたため、江戸時代早くから立木の売買が盛んで、植林も積極的にすすめられてきた。こうした林業技術の改善と普及に取り組み、幕末から明治・大正にかけて吉野林業の名を高めた。 かくして、密植法を広めて日本の林業の指導的役割をはたした。吉野林業の名声はこうした努力に支えられて今に至っている。 台風と水害 しかし一方、吉野地方を何度も襲った台風・風水害で壊滅的な被害で林業従事者が土地を離れる人々が多かった。 吉野地区の西側にある十津川は最も被害を受けている。 |
水害の度に被害 | 壊滅的な被害 | 育てた木も被害 |
紀伊半島は杉の山 | 樵従事者が多い | 杉は筏で運ぶ |
材木関係の会社も多い | 大消費地の関西がお得意様 |
8.十津川が近く、十津川郷士が活動した天誅組の可能性もある |
十津川郷士
古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。 南北朝時も吉野の南朝につくしている。 米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。 太閤検地時にも年貢が赦免された。 大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。 |
天誅組
天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。 十津川郷士960人を募兵し、兵力増大した。大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した(天誅組の変)。天忠組とも。 この後、薩長が踏襲して戊辰戦争を起こし、明治維新を成し遂げた。 まさに彼ら天誅組は、時代を変える突破口を切り開いたのである。 |
五條市から十津川へ、およそ2時間 | 途中、峠の最高地点の道の駅「吉野路大塔」で休憩 |
十津川は温泉が多い様だ | 「日本で最も美しい村」十津川 |
十津川の手前の「谷瀬の吊橋」に立ち寄る | 十津川の名勝地 |
長さ297m、高さ54m |
少し緊張しながら渡る | 54mの下には十津川が流れる |
渡り切った反対側から見た景色 | 生活用の吊り橋としては日本一、当時のお金で1戸当たり20万円拠出 |
村のポスターにはあのお婆ちゃんの村が | 奈良から十津川へ、直行バスが毎日1本走る |
十津川の中心、村役場 | 十津川村役場庁舎 |
人口3,651人、北海道の新十津川町は6,929人 | 資料を見る観光客 | 観光振興課のお姉さんは親切に説明 |
役場前の「歴史民族資料館」へ | 当時の十津川村の一般的な住居 | 切り出した木を運ぶ筏の模型 |
高野山と熊野三山を行きかう修験者達は十津川を通る | 修験者達は法螺貝を鳴らしながら | 当時の食べ物はキビ、トウキビ、アワ、ヒエ、小麦、大麦、ソバ、イモ、など。山間故、米はとれず |
当時の住居の特徴 | 昔は何処でも貧しい生活が多かった | 懐かしい風景 |
十津川は林業が生活の糧、樵の杉の枝打ち方法 |
斧やノコが活躍 | 筏で急峻な川を下る |
伝説的な剣道家が後の十津川郷士たちを育てる | 剣道の達人、中井亀次郎 |
ランチタイムは道の駅へ | 十津川名産の蕎麦、旨いッ! |
☆十津川の名勝地「果無集落」へ
果無は、「はてなし」と呼ぶそうな、同じ風景が果てしなく続く熊野古道と云う意味の様だ | 今やテレビやポスターで人気のスポット「果無集落」、限界集落とは違う、今ではここは活気が有る |
国道からこの赤い橋を渡る | 狭いジグザグ道を登ると、十津川が小さく見える | 狭い道路の運転は非常に疲れる |
殆どが1車線、交差地点が有るとホッとする | 走る事30分、そろそろ目的地か? | 駐車場、お疲れ様 |
定期バスもあるようだ | 立派な石です | 春3月は、水仙や菜の花が満開 |
ここです、「果無集落」 素晴らしい景観 |
「道」 熊野参詣道小辺路は、真言密教の総本山高野山から熊野本宮大社にいたる全長72kmの聖なる祈りの道である。 世界ではスペインのキリスト教の聖地である「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の巡礼路と世界でただ二つの世界遺産の「道」である。 紀伊半島の奥深い山岳地帯を聖地が結び、ほぼ一直線に十津川村を縦断している。 果無集落は果無山脈を見渡すその美しさから「天空の郷」と呼ばれている。 果無集落は昔ながらの古き良き日本の生活が残っており、のどかな暮らしに旅人がしばし「ほっ」とするスポットである。 |
椿だろうか? | まずは記念写真 |
人気お婆ちゃんの家 | 息子さんが婆ちゃんがいるから寄ってケ~と云ってくれた |
厚かましい私の姉妹は家にお邪魔する。「私の親戚も小樽にいるのじゃ」と歓迎してくれる。 | 人気お婆ちゃん「東テル子」さんは92歳、立派な十津川観光大使 「お婆ちゃん、テレビ出演でギャラは貰えたの」「いや、全然!でもテレビに出れて嬉しかったよ。沢山人も来てくれるし・・・」 |
☆今夜のホテル
十津川村のサンセク「ホテル昴」 | かけ流しの宿 | 西村京太郎「十津川警部」ネーミングはここから |
良い風呂でした | 露天風呂の庭が素晴らしい | 桶風呂もある |
豪華料理で美味い酒、「十津川良いとこ、一度はおいで!」 |
9.高野山、大峰山が至近距離ゆえにその間を行き来する修験者も考えられる |
熊野三山や近畿道は今でも修験者が多い | 四国88か所巡りと同様に多い | 古来の装束 |
修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。
修験道の行者。多くは髪をそらず、半僧半俗の姿に兜巾(ときん)をいただき、篠懸(すずかけ)・結い袈裟(げさ)を掛け、笈(おい)を負い、念珠や法螺(ほら)を持ち、脛巾(はばき)をつけ、錫杖(しゃくじょう)や金剛杖を突いて山野を巡る。山伏。験者(げんざ・げんじゃ)等と専門的に云うそうである。 今回は修験者が多くいたであろう、高野山に的を絞り訪ね歩くことにした。 |
☆高野山へと
十津川から高野山へは高野龍神スカイラインで | 峠の最高地点は1372m | 護摩壇山スカイタワー |
護摩壇山スカイタワーから見る、高野山方面の景観 |
☆奥の院
高野山は、約1200年前の816年に弘法大師空海が開いた真言密教の修行道場であり、高野山真言宗の総本山である。 真言宗開祖である弘法大師空海が眠る奥の院は入定のあと、その弟子たちによって、建てられた。 |
高野山の東の入り口、奥の院には先ず手を清めて | 信者も、そうでない人も列をなして歩く | 通りの両側には、戦国の武将や有名人でお金が有る人が墓を建てる |
弘法大師御廟は撮影禁止、今も生きておられると云う。その証拠に毎日2回、食事がおごそかに運ばれる |
☆金剛峯寺
高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。 「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。 |
真言宗総本山の寺院 | 金剛峯寺 |
梅の間の襖の絵は狩野探幽斎の梅月流水 | 柳の間には豊臣秀次(2代目関白)が自害したことから「秀次自刃の間」と云われている |
立派な庭園 | 台所 | 3つの釜で2,000人のご飯を炊く |
☆壇上伽藍
「僧が修行する静寂の園」という意味を持つ壇上伽藍。 高野山全体の総本堂である「金堂」や、高さ50mの多宝塔「根本大塔」などの建物が並び、高野山のシンボルともいえる。 |
1127年建立 | 昭和58再建 | 東塔 |
根本大塔内部は曼荼羅世界を具現化している | 根本大塔 |
金堂 | 高野山開創当時、大師の手により御社に次いで最初期に建設されたお堂 |
☆霊宝館
金剛峯寺をはじめ、高野山に伝えられている貴重な仏画・仏像などの文化遺産を保護管理し、一般にも公開する目的で大正10年(1921年)に開設された、博物館相当の施設。 |
霊宝館入口 | 博物館でもある | 像が無数 |
☆温泉付き宿坊 「福地院」
高野山山上には117の寺と、52カ所の宿坊があり、一般の旅行客を温かく受け入れてくれる。 国宝や重要文化財の建築物や庭園を見たり精進料理を味わうことが出来る。 ここは、宿泊施設であるとともに修行の場でもある。温泉は福地院のみである。 |
52か所の宿坊が有る | 福地院 | 立派な庭園 |
入口、受付。外国人も多い | タオル | 部屋の前の廊下、全て畳 |
小奇麗な部屋 | 廊下を降りると風呂 |
男性用風呂、何故か「桃源の湯」 | 女湯は「善女」、そうでない人は躊躇しそう |
内風呂 | 露天風呂 | 効能書き |
エッ、本当! | 男のたたみの湯は「善男」、入るのを止めておいた | 本当に畳でした |
素晴らしい庭園 |
庭園を見るロビー | 会議室かな | 懇和室? |
売店 | 年代物が並ぶ |
豪華な屏風 | 応接室 |
写経の体験コーナー | 加持祈祷 | 先祖の供養も出来る |
この様な部屋が沢山 | 襖の字が「空海」 |
コーヒー・コーナー | 外国人の宴会会場 |
体験案内 | 食事処 | アルコールはOK! 空海は高野山が寒いので弟子には酒類を許した |
朝食、もちろん精進料理 |
☆そして和歌山へ
奈良~和歌山~大阪 | 標高900mの高野山から紀ノ川市へと向かう | 紀ノ川が悠然と流れる |
麻酔薬発明の華岡青洲の里である | 和歌山城へ |
4月初めになり、桜も満開 | 女、くノ一忍法帖 か? |
暴れん坊将軍の故郷 |
質素倹約の将軍 |
和歌山市内三様 |
和歌山市内三様 |
和歌山市内三様、遠くに見えるのが紀ノ川 |
☆おまけ
★十津川村の苦労 |
この後は、北海道移住の苦労を代表する一つ、奈良県十津川村と北海道新十津川町に焦点をあててみたい。 そして当時の時代の移住がどんなに苦渋で苦労したかを先人に学んでみる。 |
十津川村 | 十津川村役場 | 歴史民俗資料館 |
十津川村は奈良県の最南端に位置する村。 東京23区全体の面積(621.98km²)よりも大きい。日本が実効支配している地域では最大面積の村である。 山間の農耕に適さぬ地形のため、古来免租の集落としてその時々の権力者の支配を受けずに半ば独立した村落共同体として存在し続けた。 免租の特権を保証してくれる実力者側に常に出兵し、古くは壬申の乱以来幕末までこの政策は変わらなかったが、明治維新後ついに免租特権が廃止された。 また、建武の新政の際には楠木正勝がここを拠点とし、以来尊王の姿勢を明治維新まで貫いた。周囲とは隔絶した地域だったため、独特の文化・気風があり、十津川郷士を輩出した。 林業、農業、鮎など川魚の養殖・加工が主たる産業。 |
「歴史民俗資料館」 時代が動くとき「十津川」の名前は歴史に数多く残っている。 幕末の最大のミステリー「坂本竜馬暗殺事件」では刺客が「十津川郷士」を名乗っている。京都御所の護衛も任されていた勤皇家の十津川郷士の名を語り、竜馬を安心させ油断させたともいわれている。いずれも真相は謎のままである。 明治維新の魁となった「天誅組(てんちゅうぐみ)」にも多くの十津川郷士が参加した。 十津川郷士の勤皇精神は古くは神武天皇御東征の際、山深い吉野の山中を先導した「やたがらす」が祖先であるといわれている。 その後も南北朝時代は南朝の天皇をお護りし、村内には南朝ゆかりの歴史遺跡が数多く残されている。十津川村の歴史と文化が詰まった歴史民俗資料館がある。 十津川村歴史民俗資料館では十津川郷士「中井庄五郎」の佩刀(はいとう)が展示されている。
居合いの達人であったといわれる中井庄五郎は坂本龍馬と親交があり、龍馬からは「青江吉次」という刀を贈られる程、親しかったであろうといわれている。
(天満屋事件)
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★十津川の大水害と北海道移住 |
明治22年の8月18日から20日にかけて、吉野郡の山岳地帯をすざましい暴風雨が襲った。 十津川郷6か村の受けた被害は大きかった。全戸数2,403戸のおよそ4分の1にあたる610戸がこわされたり、流されたりした。168人がなくなった。
山菜を掘りおこして飢えをしのぐだけだった十津川郷の人びとは、家族を失い、家や田畑を流された人びとで、ほとんど絶望的な状態に追いつめられていった。 このころ、十津川郷の被害者たちを北海道に移住させるという計画がおこってきた。はじめは、ハワイなどへの海外移住や、県内の大台ケ原とか福島県の阿武隈川上流などの未開地への移住が計画されていた。 しかし、南北朝の動乱のころ南朝に忠誠をつくして以来、明治維新までの長いあいだ国のために活躍してきた十津川郷の由緒を考え、日本の北方を守る名誉もになえるという北海道への移住計画をすすめたのである。 十津川郷6か村の村長会が開かれた。村長会では長い時間をかけて話しあいがおこなわれ、ついに、
十津川郷では10月11日に臨時の集会を開き、移住したあとのことを相談した。まず、十津川郷のなかで換金できる共有財産は、戸数に応じて分配することにした。また、郷の宝物や由緒を書いた書類など、分割できないものはそのまま十津川郷に置き、永久に両方の共有物とすることなどを決定した。 いよいよ北海道への旅立ちがはじまった。10月18日から27日までのあいだに、600戸の2,489人が3班にわかれて故郷をあとにした。伝えられる旅立ちの風景は物悲しいものだった。 秋の空はどこまでも晴れわたっている。しかし、送る人も送られる人も、いったん離ればなれになれば、ふたたび会うことがむずかしいことを知っているので、足はなかなか前に進まない。女性は涙があふれ出て別れの言葉さえ言うことができない。男性も故郷の家や山を振り返って恋しく思う気持ちがこみあげ、ただただ涙を流すだけの人もあった、というものである。 そして北海道新十津川村の誕生 明治22年11月6日までに順次小樽に上陸した移住者たちは、空知郡の空知太まで移動し、そこで冬を越すことにした。あらためて移住先と新しい村名を決めるための話しあいがおこなわれた。新村名は当然「新十津川村」と決められ、入植する土地も、屯田兵になることを希望した人をのぞいて、北海道庁の計画どおり樺戸郡徳富という場所に決まり、翌23年の6月から入植がはじまった。 同年7月には新しく40戸・178人の第2次の移住者も迎えたが、開拓には想像を絶する苦労が重ねられた。なれない冬の寒さや雪に苦しめられ、たくさんの人が病気で倒れ、こころざしなかばで死亡する人もあった。しかし、同26年には待望の文武館が開校し、翌27年になると新十津川村でつくったジャガイモを、移住に力をつくしてくれた人にはじめて送ることができた。ようやく開拓が軌道に乗りはじめたのである。 一方、残された十津川郷の人びとも災害の痛手を乗り越え、明治23年2月には6か村が合併して新しく十津川村をつくっている。 |
新十津川町が北海道に移住するまでの、苦渋の歴史物語が掲載されていたので下記に紹介しました。 作:新十津川町 総務課企画調整グループ 絵:井上正治さん
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嵐は数日続いた |
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それは水害から始まった・・・
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今後の生活再建が話し合われた |
山崩れの負傷者と医師 |
壊滅的な被害に・・・ 当時、6カ村からなる十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの大水害であった。死者168人、全壊・流出家屋426戸、耕地の埋没流失226ha。山林の被害も甚大。生活の基盤を失った者は約3000人にのぼり、その救済策が急務であった。 |
故郷を見納め北海道へ |
船で小樽に着く |
北海道へ移住を決意した・・・ 新たな生活地を求めて600戸、2489人が北海道への移住を決断。「必ずや第2の郷土を建設する」と固い意図を胸に秘め旅立つことになった。10月に3回に分かれて神戸から船に乗り小樽へ。 |
囚人に助けられ雪の中を進む |
初めての厳しい冬が訪れる |
初めての北海道の冬を・・・ 小樽から市来知(現・三笠市)までは汽車で、その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。病人や老人、子供は囚人に背負われた。空知太の屯田兵屋は建設中でまだ150戸しかなく、1戸に移民4戸が入った。 |
石狩川を船で渡ってトック原野へ |
原生林を測量し、区画割が行われた |
雪解けを待って石狩川を渡る・・・ 遅い北海道の雪解けを待って、石狩川を渡り、植民区画の第1号としてトック原野に入植した。明治23年6月のことであった。 |
木の伐採から開墾が始まる |
木の伐採から開墾が始まる |
困難を極めた開墾・・・ うっそうと茂った原始林を切り、根を起こし、燃やしながら、少しずつ開墾を進めた。十津川人は、元来林業に従事していたので、伐採は得意だったが、笹や草の根が張り詰めた土地を耕す作業は、並大抵なものではなかった。 |
子供の教育には力を入れた |
私立文武館 |
子供の教育に熱意を注ぐ・・・ 文武両道を尊ぶ十津川の人々。子供たちの教育には熱心であった。開拓に入るとすぐに学校建設に着手し、明治24年3月に、徳富川を挟んで南北に1校ずつ小学校を建てた。その後通学の不便解消に学校数も増えていった。また、明治28年、母村にならい高等教育の場として私立文武館を建てた。 |
米作が始まる |
灌漑用の施設整備が行われる |
水田が広がりはじめる・・・ 明治30年代に入ると北陸地方などからの移住者により、水稲の作付けも本格化する。夜盗虫の大発生、石狩川の氾濫などの災害に見舞われながらも、着実に農業基盤を固めていった。 |
偶然、実った稲を見つける |
大正初期の橋本町の様子 |
一大米作地帯へ発展し・・・ 大正期に入ると人口は1万5000人を超え、農業生産力や財政規模の面でも空知管内で屈指の自治体へと成長していく。 |
未来に輝く町作り |
現在の街並み |
そして現在へ・・・ 冷害と凶作、そして戦争という厳しい時代を村民たちはよく助け合い乗り越えていった。戦争終結と共に息を吹き返した新十津川は、昭和32年1月、ついに念願の町制施行を実現する。 |
十津川村は山間の地 | 十津川村MAP |
★梅と桜 |
梅林
奈良県
梅にまつわる言葉
日本における作付けと収穫 収穫量の都道府県別では、北から青森 1930トン、群馬 6800トン、福井 1270トン、山梨 2100トン、長野 1990トン、 |
桜 日本の桜、三大名所 ・弘前公園(青森) 弘前城公園に約2600本。 |
★現在の奈良、名産・グルメ・・・ |
茶がゆ | 三輪ソーメン | 柿の葉寿司 | 奈良の柿 |
★奈良の産業 |
観光(神社仏閣)、イチゴ、スイカ、柿、茶葉(大和茶)、書道の墨、金魚、素麺、吉野杉、靴下、グラブ、雪駄、草履 |
☆屯田兵、開拓団が生まれた社会背景 |
明治維新時の階層別人数と北海道開拓団 ・華族(大名)・・・・・・・・・・・ 427家 ・士族(家老など上層部)・・・・・・ 31万人 ・一般氏族(屯田兵等へ)・・・・・・・ 200万人(多くが北海道の屯田兵・開拓団へ) ・農民(構造改革で農地を持てなくなった者や飢饉・天災で食べられなくなった者数知れず)開拓団へ ・林業(台風・水害等の天災で食べられなくなった者)開拓団へ |
☆十津川大水害で、奈良の祖先も北海道へ移住決心か? |
1889年(明治22年) 8月、熊野川(十津川)流域で起きた十津川大水害被害状況
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★苦難のなかで、希望と夢をもとめた開拓者たち |
生き延びるためには、自ら鍬をもたなければならない。彼らは再起を図るために、新天地である北海道へ移住してきた。 伊達藩は現在の伊達市や当別町など、白石藩は現在の札幌市白石区や手稲区、石川藩は室蘭、佐賀藩は釧路などに入植している。 また、没落士族の救済と開拓、さらに北方防備のために「屯田兵(とんでんへい)」の制度が設けられた。兵士でありながら、日常的には未墾地の開拓にあたるというもので、1875(明治8)年の琴似屯田を皮切りに、道内37ヵ所に屯田兵とその家族が入植している。
さらに、明治20年代になると、会社・結社による移住が増えてきた。帯広の晩成社(ばんせいしゃ)、札幌・月寒の報国社(ほうこくしゃ)、浦河の赤心社(せきしんしゃ)、岩内の起業社(きぎょうしゃ)などである。その後は、個人による移住が増え、東北・北陸・四国の各地方から、年間数万人もの移住者が渡航してくるようになった。 「苦難に満ちた開墾生活 帯広の本格的な開拓は、1883(明治16)年5月に依田勉三(よだ・べんぞう)の率いる「晩成社」一行27人が、下帯広村に入植したことから始まる。 米、麦、粟、豆といった穀類に加え、野菜類を栽培したが、度重なる冷害やバッタ、ノネズミの襲来などにより、その開墾生活は苦難に満ちたものであった。 「草木で葺いた家で暮らす」 開拓小屋 個人の開拓者たちは、これから開墾する土地に着くと、まず掘立小屋を建てた。 左右から柱を斜めに立てて、葦や笹などの草木で葺いた屋根と壁で囲ったものである。その形から俗に「拝み小屋(おがみごや)」とよばれた。 定住するための条件がそろうと、家族を呼び寄せて、もう少し大きな開拓小屋を建てた。 暖房は炉で大木の根を燃やした。煙突がないので、煙がいつも部屋に充満していたという。 「農民の単独移住」
その中でも最も多かったのが農民の移住で、自作農となった者のほかに、大農場の小作農民として移住した者もあった。 また、農業移住のほか、数は少ないが漁民や商工業者、鉱山や土木工事の労働者など多様な職種の人々が移住している。 一般の単独移住は、かなり以前から行われていたが、明治20年代に入ってから急増した。 移住の動機
「移住者の出身地」
明治15年から昭和10年までの54年間の移住戸数を見ると、上位10位までが全て東北、北陸地方の各県で占められ、これら10県で全体の約70%に達している。 〔移住者の出身都府県 (明治15年~昭和10年)〕 |
★観 光 |
吉野山 桜4月始め~ | 高野山 高野山唯一の温泉「宿坊:福地院」に宿泊 |
十津川 | 賀名生(アノウ)梅林 見頃2月下旬~3月20日 |
旧柳生藩家老屋敷(作家山岡荘八の所有から現在は奈良市へ寄贈) | 平城宮跡 |
春日大社:奈良時代の初め、平城京鎮護のために建立 | 東大寺大仏殿は世界最大の木造建築物 |
五重塔で有名な興福寺 | 江戸時代の高取城 |
★ わが 祖 先 |
日本の苗字帯刀は、歴史をたどれば明治3年9月までは「平民苗字許可令」で村長とかを除いて庶民は苗字が原則無かったことになる。 北海道に移住で渡って来た祖父は、明治6年生まれである。そして明治35年前後に渡道している。その祖父の父親の名前は「下浦忠三郎」、江戸時代弘化3年(1845年)の生まれであり、既に苗字が付いている。 祖父母の話で、父母や孫たちが記憶している話をまとめて見た。 祖父は小さい頃「チョンマゲ」があった。祖母は厳格な侍の家に生まれ非常に厳しかった。祖父母の子供で長男が昭和30年代に奈良の実家を頼って訪問すると、そこには従兄弟が住んでいて、既に他界していた祖父の母親が語るには、移住した家族に死ぬ前に一度は会いたいと嘆いていたと云う。生活は大層貧しそうであったと云う事であった。 2015年春、梅と桜の咲く季節、その地を訪ねる事にした。 はたして祖父の仕事は、百姓か樵か、柳生の忍者か郷士か、坊主か修験者か、武士か天皇家の貴族か・・・ ミステリーの様な課題を抱えて、北海道移住三代目の子孫たちは調査に出かける。殆ど娯楽と観光になる事であろうが、心掛けは殊勝である。 しかし、はるばると奈良へ来たが、親戚の家はあったが既に廃墟、その子孫の住所も分からずじまいであった。 また、この奈良県吉野地区の移住者の、移住に至る原因等も市役所の担当では不明であった。専門家に合えれば判明したであろうが、叶わなかった。余りにも時が絶ち過ぎたのである。 |
奈良から来た優しい祖父 | 厳格で怖かった祖母 | 奈良から来てブラジルへさらに移住した叔父。 右端はルバング島から帰還した小野田寛郎さん、ブラジルで親しくしていたらしい。 |
祖父の長女はサンパウロで今は幸せに。娘に囲まれて。 |
終わりに・・・ 祖父母が北海道に、移住してきたのが明治35年(1902年)、既に113年にもなる。 移住第3世代の我々は、第二次世界大戦で日本が敗戦国になった頃の世代であるが、その辺の記憶は幼く殆どない。小学生の頃からの記憶はところどころ記憶にあり、町や村全体の住民が貧しく、ひもじい生活であったことは鮮明に覚えている。 それから高度成長時代で3Cと言われるカ―・クーラー・カラーテレビで湧き立ち、そして企業戦士となり、今は消耗品扱いの老人ホーム予備軍である。 ここらで人生一休み、100年前に思いを寄せて、先祖の住んだ土地を訪れるのも良いだろう。どのような新発見があるや否や、期待が高まる。と思いながら旅立ったが、決定的な資料は発見できなかった。だが当初の予想通り侍であった。その情報は何と第4世代の男性から連絡が来た。このホームページを見て連絡をしてくれた。お爺さんは高取藩の足軽で、伴侶のお婆さんは高取藩の侍の娘で、家庭を持ったそうですと。 ようやく情報は繋がった。 奈良県をほぼ一周して風にあたり、風土を見て、衣食住を見てそれなりの意義は感じた。好奇心を養う事に意義を感じた旅であった。 おわり |