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    日本の製糸業をささえた、飛騨と冨岡のおしん達

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 2,015年10月、世界遺産の群馬県・富岡製糸場を訪ねた。

 日本の繊維産業を昭和62年まで115年に渡り、世界的な規模で明治以降の日本の代表的産業として支えてきた製糸業、そこには若い女工達の献身的な苦労がしのばれる。

 日本一の製糸企業である、長野県岡谷市の片倉工業をその昔訪ね、諏訪湖と片倉館の「千人風呂」を体験した思い出がある。

 世界遺産は冨岡製糸場、石見銀山、小笠原諸島の3か所を残していたが、今回ようやく冨岡を訪れて社会勉強が出来た。

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  ☆冨岡製糸場 (群馬県富岡市) (世界遺産)

    2,014年(平成26年)ユネスコ世界遺産に登録  世界遺産登録前の年間見学者は、31万人→ 登録後133万人

                     世界遺産登録認定証

                            広大な敷地

 冨岡製糸場のあらまし・・・

 富岡製糸場は明治5年(1872年)、明治政府が日本の近代化のために最初に設置した模範器械製糸場。

  江戸時代末期に鎖国政策()を変えた日本は外国と貿易を始めるに当たり、当時最大の輸出品は生糸であった。しかし、輸出の急増によって需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる粗製濫造問題()がおき、日本の生糸の評判が下がってしまった。

 明治維新後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業や科学技術の近代化を進める事になる。そのための資金を集める方法として、生糸の輸出が一番効果的だと考えた。そこで政府は生糸の品質改善()・生産向上と、技術指導者()を育成するため、 洋式の繰糸器械()()えた模範工場()をつくることにした。

 冨岡が選ばれた理由はこの地域は養蚕が盛ん、広い土地がある、用水がある、石炭が採れる、地元の同意が得られる等であった。

 かくして国の経営で、繰糸場は長さ約140.4メートル、幅12.3メートル、高さ12.1メートルで、当時、世界的にみても最大規模であった。

 その後、明治26年に三井家に払い下げ、昭和14年には日本最大の製糸会社であった諏訪湖の片倉工業に合併。だが、世界の繊維産業の変化(中国等の安い繊維に対抗できず)により、昭和62年、実に115年の長い歴史を刻んで操業を停止する事になる。

                               広さ55,391.42 平方メートル

   説明員がマイクで案内、蚕の話から       蚕から生糸を作ります             作業手順

  

           蚕が作った繭            多くの女工が作業して             最初は官営でした

  操業は明治5年(1,872年)、115年続きました         建物はレンガ積み             レンガはフランス積み

             工場内部を見学           フランスからの機械導入

               機械導入前は糸車で作業               当時の女工の作業風景

      指導者はフランス人女性教師、その住居  片倉診療所、昭和14年から諏訪湖の片倉工業が合併し経営

          フランス人技術者ブリュナが責任者                 ブリュナの広大な社宅

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  ☆日本最大の製糸会社「片倉工業」 (長野県岡谷市)

岡谷市は諏訪湖を抱え、製糸業の中心地として栄え、現在は「東洋のスイス」と言われるように時計やカメラなどの精密機械工業が盛んなことで知られる。日本100名山の美ヶ原,霧ヶ峰,蓼科山が白い頂きとして眺められる。  日本最大の製糸会社、片倉工業は諏訪湖に隣接。

     

       今も残る洋風銭湯の「千人風呂」        一度に千人、立ってはいる温泉

 シルク王の贈り物、社会還元の温泉施設、洋風銭湯、今も賑わう

 諏訪湖の街、岡谷市の中心地の一角、1万平方メートルの敷地に、庭園を持つ2棟の2階建て洋館がそびえる。1棟は高さ26メートルの尖塔(せんとう)と煙突を備えた鉄筋コンクリート造りの温泉浴場。1階には男女とも同じ大きさの「千人風呂」がある。広さ4メートル×7.5メートル、深さ1.1メートルの大理石製だ。

 1.1メートルと深いわけは、大勢の女工達が一度に早く入浴できるようには立って入浴するのが良いだろうとの親心であると云われている。当時、この様な福祉施設は他に類を見ないという。慰安娯楽施設では、「三沢座劇場」を建設、舞台開きには市川団十郎一座を招請して文化の向上を図っている。事業の発展を支えるのは、従業員の福利厚生と地域の共生にあるとの考えによるものだろう。

 そのきっかけは、2代片倉兼太郎は、第1次世界大戦後のヨーロッパの農村地域で充実した文化福利施設を目の当たりにして感心した。とりわけ当時のチェコスロバキアの温泉保養地の施設に感銘を受けたという。

 こうしてシルク王の贈り物は地域住民に銭湯代わり、そして寄宿舎住まいの女子従業員たちの疲れを癒やす施設として愛用された。

 いま片倉館に入浴で訪れる人は、年間16万人にのぼる。

 初代・2代兼太郎のこのような経営姿勢について、戦前の製糸業に付きまとう女工哀史論の先入観を払拭し、「日本的経営の原点」とする見方があることに改めて気付く。それでも当時の女工哀史は語り継がれている。

 一説には女工になるためにはそれなりの基準があり、選ばれた女工たちは厳しい作業だが、暖かい宿舎や食事、手当が支給されたが、選ばれなかった女・子供は当時の時代には貧しい生活が強いられていたという。

 では何故ここ諏訪が製糸で栄えたか?
 それは諏訪人が持つ質素、倹約、勤勉、忍耐、進取の気風が製糸王国諏訪を作り上げたと云われている。また自然環境も見逃せない。繭の保管に適した乾燥した気候や製糸に必要な水にも恵まれた。なかでも自然の大貯水池諏訪湖とここから流れ出す天竜川の水は軟水で、絶好の製糸用水であり、「諏訪湖の水は糸になる」とまでうたわれたと云う。

 明治5年には人口わずか4,500人足らずの岡谷市は、大正9年には約4万5000人と10倍に膨れ上がった。
 
その大部分が製糸労働者で、それも圧倒的に若い女子、いわゆる女工だった。
 時代が変わって、平成の現在でも岡谷市の人口は50,000人である。いかにこの当時隆盛していたかが理解される。

 若い女性が製糸労働者として次々と峠を越え岡谷に向かった。岐阜県飛騨の山村から難路の野麦峠を越え、岡谷の製糸工場に就労した明治期の女工の実態を描いた山本茂実の小説「あゝ野麦峠」は有名で、映画化された。

 

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    ☆女工哀史 ああ野麦峠・・・
製糸業をささえた、飛騨のおしん達

 古来から野麦街道があり、能登で取れたブリを飛騨を経由して信州へと運ぶ道筋であった。信州では飛騨ブリとして珍重され、能登では1尾の値段が米1斗であるものが、峠を越えると米1俵になると言われた。

 明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、飛騨の女性(多くは10代の少女)が女工として働くためにこの峠を越えた。

 峠名の由来

 峠に群生する隈笹が十年に一度、麦の穂に似た実を付けることがあり、土地の人に「野麦」と呼ばれていたことによる。凶作の時にはこの実を採って団子にし、飢えをしのいだそうだ。

        

          小説 「あ~野麦峠」       映画、主演は大竹しのぶ

      動画・・・・・・・野麦峠      野麦峠(山本茂実・あゝ野麦峠より)

      女工哀史   

      http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi.htm

          現在の野麦峠           明治・大正時代の野麦峠      家に帰れるのは年末とお盆の二度

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 まとめ・・・

 時あたかも、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が放映されている。

 吉田 松陰の妹・文が、姉と、姉の夫の初代群馬県令となった楫取素彦が冨岡製糸場にかかわる場面である。
 当時の冨岡製糸場と日本の製糸業、そして女工たちの苦労と現実を居ながらにして理解できる状態である。

 人生、何時の時代も学ぶべきものが常にある。それは世界旅行も国内旅行も同じである。百聞は一見に如かずを続ける意義を確かめながら旅を終えた。

                                                         終わり

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