・・・・・時 代 小 説・・・・・

       

 最近、時代小説にはまっている。

 吉川英治、五味康祐、山本周五郎、柴田錬三郎、池波正太郎、藤沢周平、宇江佐真理・・・等の本が、時代小説として人気があるようだ。

 これらの多くは、江戸市中で起きる様々な事件を解決していくもので、江戸町奉行所に勤めている与力や同心、また彼らから十手を預かる岡っ引や下っ引が主人公である場合が多い。

 映画やテレビで見る彼らの生活環境や、本で読むところの生活レベルが今一つ理解していない事が多い。例えば給料、住まい、位置づけなどなど。ましてや江戸の文化にもうといものがある。

 一例で、奉行所が江戸(現在東京)の何処にあったかなど不知である事が多い。

 2016年の直木賞は67才、青山文平の「つまをめとらば」が受賞した。やはり時代小説である。

 寒い冬は炬燵に入り、のんびりと本に親しむのも悪くない。居眠りするには最高でもある。

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    ☆江戸町奉行所

   山手線のJR東京駅~有楽町駅間は徒歩5分程度、 両奉行所は至近距離にあった         奉行所の組織図

     ☆江戸:北町奉行所

  北町奉行所が東京駅の八重洲北口付近   所在、東京都千代田区丸の内一丁目一番地国鉄所有地内 現在大丸通用口

                             遠山の金さんも、この場所で背中の桜吹雪を出して大見え?

    ☆江戸:南町奉行所

  南町奉行所(南番所)は現在の有楽町マリオン付近      南町奉行所跡の説明板(奥がJR有楽町駅)

                                     名奉行・大岡越前守もここにいた!

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     ☆当時のスタイル

       奉行は裃  与力は数人のは配下を従えた。馬も許可された    同心は2~3人の手下を従えた

          岡っ引は同心に雇われた  与力・力士・火消の頭は江戸の三男(えどのさんおとこ)と呼ばれてもてはやされた

 

      南町奉行所推定図、奉行の住まいもここに       北町奉行所推定図、広さが約2620坪

       八丁堀同心の木土門      左上が与力の住まいで300坪、右は同心の住まいで100坪

                       与力の屋敷図,300坪

            八丁堀組屋敷(当時の地図)                 八丁堀組屋敷(現在の地図)

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     ☆江戸町奉行(北・南)

             イヨッ!名奉行        組織図          この桜吹雪がみえね~か!

 

 奉行・・・ 

 老中の支配下にあって、江戸の武家地・社寺地を除く地域と町人に関する行政・裁判・警察などを担当した。数寄屋橋に南町奉行所、呉服橋に北町奉行所があり、一月交代で職務に就いた。寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行という。

 町奉行は高位の旗本の就く役職で、移動の際には駕籠に乗り、25人程度の同心や従者を伴っていた。馬に乗らずに駕籠に乗ったのは、極力賊に襲われないためであった。

 奉行には、だいたい2、3千石の旗本(徳川将軍家直属の家臣団)がなった。1石は、米1石=金1両(小判1枚)=現在の約10万円。3千石=3億円。

 しかし、家臣を多数雇い、維持するにはかなりの費用を要するため決して楽な財政ではなかったと云われる。

 時代劇ではお白洲のその場で町奉行が死罪や遠島を容疑者に言い渡しているが、実際には老中、さらには将軍の最終決裁を経なければ刑が確定しなかった。大衆娯楽のテレビ・映画だからアレンジされたのであろう。

 町奉行の役宅は奉行所内にあった。激務のため在任中に死ぬものも多かった。

北町奉行は43代まで、南町奉行は50代まで続くが、テレビ等で人気の奉行は、

 
   
27代 北町奉行 遠山左衛門尉景元(天保11年(1840年)3月2日 - 天保14年(1843年)2月24日)

   14代 南町奉行 大岡越前守忠相(享保2年(1717年)2月3日 - 元文元年(1736年)8月12日)

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     ☆与 力 & 同心

    

 
       与力は、奉行に代わりお白洲で裁きもした           付け届で、生活豊かな同心

 与力・・・

 与力とは古くは合戦などの折に力を与(とも)にして加勢する人を意味し、戦国時代には侍大将などに附属した騎馬の武士をさした。

 与力は馬上が許されたため馬も合わせて単位は「騎」だった。警察権でいうならば今日の警察署長級、裁判も詮議担当したので今日の裁判官や検察官的側面もあった。

 与力は役宅として八丁堀に300坪程度の組屋敷が与えられた。また、もめごとがおこったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、裕福な家も多かった

 特権として、毎朝湯屋の女風呂に入ることができた。これは、八丁堀の湯屋は特に混雑していたことに加え、当時の女人には朝風呂の習慣がなかったため女湯は空いており、男湯で交わされる噂話や密談を盗聴するのにも適していたためである

 与力は組屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。粋な身なりで人気があり、与力・力士・火消の頭は江戸の三男(えどのさんおとこ)と呼ばれてもてはやされた。

 与力の給料

 江戸町奉行配下の与力は200石(現代2000万円)、1両=10万円。だが実入りは40%程度。

付け届けなどの副収入は、300両~500両、1両=10万円とすると付け届けは3000万円~5000万円ということになる。俸給の倍以上になる。しかし実際は下記の計算となる。

当時の俸禄を現在価値に換算したらどうなるか。
 換算すること自体にかなり無理があるのは承知の上で計算してみる。
 例えば、
200石10人扶持(男5・女5)の旗本がいたとして換算するとどうなるか。

 家禄    200石の実収が4ツ物(四公六民)として80石
 扶持米  男扶持  一日5合×360日×5人=9000合=9石
        女扶持  一日3合×360日×5人=5400合=5.4石

 合計 94.4石=236俵=13216㎏

 現在の米10㎏を仮に4000円とすると・・・5,286,400円となる。
 これで、10人が生活するのである。役について職禄をもらえればまだ良いが、無役であれば内職でも何でもしなければ生きていけないのがよくわかる。

 テレビや映画でよく見かける場面で、与力や同心が袖の下に小銭の入った紙包みを受け取る場面があるが生活がかかっていたのである。

 同心・・・

 同心(どうしん)は、江戸幕府の下級役人のひとつ。与力の下にあって庶務・見回などの警備に就いた。

 江戸の南町・北町奉行所には与力が各25騎(25人)、同心が各100人配置され、江戸の司法・行政・警察の任にあたった。このうち警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30名にも満たず、人口100万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引と呼ばれる手先を雇っていた。

 同心の俸禄は30俵2人扶持程度の微禄であったが。
 
同心の302人扶持・・・2人扶持は1年間で2人で消費する分として、30俵を換金すると10.5石(1俵=3.5斗とする)で100万円~150万円。

 実際は諸大名家や町屋からの付け届けなどで、その数倍の実収入があった者も多く、そのため岡っ引のような私的使用人を雇うことができた。

 屋敷は与力が約300坪、同心が約100坪程度の規模であった。拝領した広い屋敷を貸して家賃収入を得る者もいた。

 同心は世襲制ではないが、同心株を得てなるが、殆どが世襲の様なものが多い。

 同心株を売るほど困窮した者も多いとはいえなかったため、事例は多いわけではなかった。有名な例としては樋口一葉の父が挙げられる

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     ☆岡っ引 & 下つ引

           

          
        岡っ引は江戸に500人                    下っ引は3,000人

 岡っ引

 江戸時代の町奉行所や火付盗賊改方などの警察機能の末端を担った非公認の協力者。御用聞き、目明かし『半七捕物帳』や『銭形平次』が有名。

  岡っ引は配下に下っ引と呼ばれる手下を持つことも多かった。

 同心は私的に岡っ引を雇っていた。岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという

 奉行所の正規の構成員ではなく、俸給も任命もなかったが、同心から手札(小遣い)を得ていた同心の屋敷には岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。ただし、岡っ引を専業として生計を立てた事例は無く、女房に小間物屋や汁粉屋をやらせるなど家業を持った。

 捜査の必要上、犯罪者の一部を体制側に取り込み情報収集のため使役する必要があったため、必然的に博徒、的屋などのやくざ者や、親分と呼ばれる地域の顔役が岡っ引になることが多かった。

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      ☆江戸幕府

                           江戸城は「総計30万6760坪」
         外郭=周囲15.7km、東西約5.45km、南北3.82km)、面積2082ha

 

          徳川幕府は260年間                                         江戸幕府の組織図

   

大 老

政務を総括し、将軍を補佐する最高官である。登城時間は老中と同じく午前10時であるが、月番制など無く、1人であるから毎日登城した。大老の退出は午後2時で、その行列に会う諸大名は道を譲り、御三家・御三卿も会釈した。

老 中

大老の下に属するが大老が不在の時は幕閣の首班で、執政・宿老・閣老とも言われた。初めは年寄衆1万石以上の譜代大名から任じられたが、後には2万5000石以上となった。定員は4~5人で、月番制で毎月交替した。

側 用 人

将軍側近第一の立場で、将軍補佐の役である。側向御用をつかさどり、老中伺い等を取次ぎ伝達する職で、将軍の寵愛によっては、最大の権力をもつこともあった。

留 守 居

老中に属し定員は5名で、将軍不在のときの城の責任者である。職務は幅広い。5000石高で5000石級の旗本から選任された。



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     ☆江戸の食文化

  屋台の掛け蕎麦が16文=300

             天ぷらでチョイと一杯

             

                江戸時代の居酒屋               徳利酒

 町人から同心、岡っ引きまで、時には暴れん坊将軍も?   2階では盗賊一味も打ち合せ? 艶っぽい男と女も!

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   ☆江戸の文化

          歌舞伎                 浄瑠璃             芝居小屋

             浮世絵版画                 吉原遊郭

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  ☆江戸の食事模様

      貧しければお新香だけ?    山盛りご飯にお新香、梅干しも、中流?       おかずが2品も、町家や武士?

 

         武士の食事風景            奉行クラス?     肉も魚もなく、健康そのもの

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   ☆幕末の日本の人口は3,000万人

 

 武家の奥方から町人の娘まで習い事が盛ん
   今日の日本の文化につながっている
   江戸の街には階層にかかわらず、寺小屋が1,300件も存在した

 識字率は70~90%で世界一

 江戸時代の教育機関は、大きく分けて藩校・私塾・寺子屋の3つといわれている。藩校・私塾は、幕府・藩の体制・統制下に置かれた教育機関で、民間運営の寺子屋とは、一線を画している。

 武士で文字の読み書きができない者はいなかった。

 江戸時代のわが国においては、世界で類を見ないほどに教育がいきとどき、識字率においては、ダントツに世界一だったと考えられている。

 幕末の安政から慶応にかけての14年間には年間300を越える寺子屋が開業している。資料によると全国に16560軒の寺子屋があったといい、江戸だけでも大寺子屋が400-500軒、小規模なものも含めれば1000-1300軒ぐらい存在し、寺子屋の教育は「読み書き算盤」と呼ばれる基礎的な読み方・習字・算数の習得に始まり、さらに地理・人名・書簡の作成法があった。

 江戸における嘉永年間(1850年頃)の就学率は70-86%といわれており、

 イギリスの主な工業都市で20-25%(1837年)、
 
フランスで1.4%(1793年)、
 ロシア帝国時代のモスクワで20%(1850年)などの外国に比べ就学率が格段に高かったと云われている。

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    ☆江戸時代は混浴

 当時は蒸気風呂からお湯につかる風呂への過渡期。
蒸気を逃がさないよう、洗い場と浴槽の間の出入り口を低くつくったのが「ざくろ口」 
かがまないと入れないざくろ口は、風呂屋のシンボル。
天神湯は入り込み湯といわれる混浴で、つくりは、板の間の脱衣場→切石敷の洗い場→ざくろ口→浴槽

 徳川家康が江戸に入った翌年の1591年に最初の銭湯ができた。

 当初の入浴料は1文で、現代の価値にして数十円ほど。
 江戸は火事が多く、「火を使わない」ことが重要なので、裕福な商人たちの中にも、自宅に風呂をつくらず銭湯に通う人もいた。

 江戸時代後期の1800年代初めの江戸には、600軒もの風呂屋があったそうである。

 江戸時代の前期までは蒸し風呂しかなく、蒸気の中で身体を洗い温めた。

 江戸時代初期の蒸し風呂の頃には、男女とも陰部を隠すため下着をはいたまま入るのが普通で、次第に何もつけずに入るようになった。おそらく、お湯をはった湯船につかるのが普通になったことと関係があるようだ。

 江戸中期になると、混浴もあるが女風呂も各地に出来始めたようである。しかし、ペリーが日本に来てからは男女一緒の混浴文化は異常と言われ、寛政の改革からは禁止になってきた。

 着飾ったお姉さんは、お客の背中を流す「湯女(ゆな)」という女性で、背中を流したり着替えの手伝いをした。

 またこの湯女が二階で男を相手に良からぬ振舞い仕事をしたので、その後、幕府は吉原遊郭を作りそこに全員を収容したそうである。

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   ☆火事と喧嘩は江戸の華

      本来は「火事は江戸の恥」と幕府が言っていたが、庶民が勝手に「江戸の華」と言いだした

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    ☆江戸の刻(とき)

 明け六ッ(日の出)、暮れ六ッ(日没)が基準。

 それぞれを6等分したのが一刻。
 したがって、季節によって一刻の長さは異なる。(不定時法)

 一刻≒2時間
 半刻(はんとき) ≒1時間
 四半刻(小半刻)≒30分
 30分以下の表現はありませんでした。

 数の場合(時刻を言う)
 夜九つは 24:00
 夜九つ半は 1:00

 干支の場合(時間を言う)
 子の刻は午後11時~午前1時

         江戸・本石町の鐘


 時の鐘

 二代将軍秀忠の時代に、江戸の町に刻を知らせる時の鐘が本石3丁目(現 日本橋室町四丁目)に江戸時代最初に設置されたと言われる。
 後には江戸市内数カ所
に設けられる。

 この鐘はその本石町の鐘で、宝永八年(1711) に改鋳されたもので、明治初期まで使用された。
 現在は日本橋小伝馬町十思公園内に設置保存されている。

・浅草寺 ・寛永寺 ・本所横川町 
・芝切通し ・市ヶ谷八幡 ・目白不動 
・赤坂田町 成満寺(はじめ円通寺)
・四谷天竜寺 等に鐘が設けられた。

 鐘は捨て鐘と云って三つ打ってから(注意喚起のため)それぞれの刻限の数を鳴らした。

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             ○江戸幕府の仕組み(現代風表示)

 

大御所=取締役会長
将軍=代表取締役社長
大老=代表取締役副社長
老中=取締役専務・専務執行役員
京都所司代=取締役常務・京都支社長・宮中及び西国監理担当
大坂城代=取締役(上席)・大坂支店長・西国監理担当
若年寄=取締役・執行役員
側用人=役員待遇・社長室長
寺社奉行=上席理事・宗務専管
側衆=理事・社長室秘書
留守居=理事・社屋管理担当
大番頭=理事・警備担当(12組あるので、警備第一部長、警備第二部長、警備第三部長云々)
大目付=理事・監理担当
江戸町奉行=主幹・江戸市中司法及び行政専管
勘定奉行=主幹・経理・財務担当と主幹・天領担当
作事奉行=副主幹・工務担当
普請奉行=副主幹・土木担当
長崎奉行=上席参事・長崎市中司法及び行政専管
京都町奉行=上席参事・京都市中司法及び行政専管

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